日々の雑感

忍びの里、伊賀の地より。オーガニックとは? 「本物」はどこに?

バカ(阿呆)は治らない、ってのを前提にしていきましょう

相変わらずまたいろいろ手を出し過ぎて、

キャパオーバーのままドリフトしているかも。

決して望ましい状態ではないけど、

来るもの来るものをまともに受け止めていたら

結果的にこうなっているわけで。

そろそろ断舎離~選択と集中のタイミングかも。

 

たまたま流れてきた糸井重里さんの「ほぼ日」コラムの

シンプルな文章がすっと胸に入ってきた。

 

若いときのじぶんのバカさというものが、
だんだんとわかるようになってくる。
バカでよかったということもあるし、
そのバカは治せてよかったなぁということもある。
ぼくのバカのせいで迷惑をかけた人のことも、
もうしわけなかったなぁと思い出す。

それよりなにより、ぼくのバカを知っていながら、
押さえつけたり怒ったりするのでなく、
黙ってやり過ごしてくれた大人たちには
いまさらだけれど、お礼を言いたい気持ちだ。 
バカが混じって世間というものだし、
バカをやりながら大人になっていくものだし、
人はいつでもバカになるものだし、
バカに気づけなくなるからこそバカなのだし、
「世界はバカでできている」というくらいバカなものだ。
 
じぶんが、こんなにバカだったし、
いまもたっぷりとバカなのだから、
バカに対して寛容になるかといえば、
そうでもなかったりする。
さんざんじぶんのやってきたバカについては、
かえって敏感になっているかもしれない。
やめろ、そのバカは、と、思うことも少なくない。
 
どうしてバカになってしまうのか、という原因も、
少しは思い当たるようになるが、
バカやったり言ったりしている真っ最中には、
そんなことは忘れてしまうのである。
現に、いまのじぶんでも、おそらくそうだろうと思う。
だいたいのバカの原因とは、
「もっと、おれを(ぼくを、わたしを)認めろ」である。
「わたしへの肯定が足りない」という感覚が、
バカの素になってしまうのだと思うのだ。
酔っぱらいのいちゃもんも、こじれた理屈屋の御託も、
人を人として扱えない態度も、変な意地っ張りも、
知ったかぶりも、嘘つきも、根っこは同じだろう。
このあたりのことって、どんな時代であろうが
ずっと変わらないような気がする。
つまり、それは人間というものの属性なんじゃないかな。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
いつか人類は立派な生物になる、とは思えないんだよなぁ。

 

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関西なら「阿呆ーあほ」というところ?

 

我が身を振り返って、

昔より幾分ましになったとしても

今も相変わらずバカだなぁと思う。

 

年を取ると、どうしようもないからなぁ、

って開き直りが出来てくるだけのことで、

やっぱりバカなことを繰り返してしまうな~。

 

 

自分を認めてほしい、肯定してほしい、

何だかんだ、皆そんな感情に振り回され続けてる。

 

「世界はバカでできている」

 

ということを前提に置くのは案外大切なのだろう。

相手のバカも、自分のバカも、

その存在を認めるしかない。

あ~あ救われねぇなぁ、って。

 

で、そのどうしようもない感のなかで、せめて

そいつがバカになっている理由、

認めてほしいという事実を

静かにそっと拾い上げられるようになりたい、

そんな風に思う。

まぁ、見て見ぬふり、みたいな感じでしかないけど。

 

自分だって抱えきれないバカさ加減を

しょうがねぇなぁ、ってやり過ごしてもらってきたんだ。

だから、僕も同じようにしてあげられれば

それがせめてもの社会への恩返しなのかもしれないなぁ。

 

「こころ」ある仕事をしたい。

 

ヒントは案外こんなところにあるのかも。