日々の雑感

忍びの里、伊賀の地より。オーガニックとは? 「本物」はどこに?

青果市場で感じたこと/生きる緊張感~自vs他のバランス

これからの農産物流通のあり方を模索するなか、

ここ最近は京都南部青果市場(京印)さんに

出入りさせてもらいながら、

市場の仕組とその活用方法について学んでいる。

 

「市場」というのは「人」「もの」「金」が集まるところ。

その結果、必然的に「情報」があつまるところでもある。

人の長い歴史のなかで、取引の中心は市場にあった。

市場というのは言うなれば、生きたビッグデータそのもの。

商品の価値(価格)というものは

数多くの目にあたりながら形作られていく。

 

農家というのは職業柄、土地にしばりつけられて

外の情報に疎くなりがちだ。

 

実際自分が早朝から市場の見学をして感じるのは、

暮らしのリズムの中で毎朝野菜を持ち込み、

自分の仕事の成果に対して競りで値が決められ、

雑多な職種とはいえ互いに見なれた顔同志で雑談をするなかで、

社会のなかでの「自分の位置」を確認できることの重要性だ。

 

インターネットが普及して、自ら様々な情報を収集できる

ようになった今でも、「生の情報」は絶対的な価値を持つ。

 

旧タイプの(主に小規模な)農家と話をしていて感じるのは、

「うちの野菜が日本一」と真剣に信じている人の多さ。

ある意味とてもハッピーなことではあるけれど、

客観性ゼロ、井の中の蛙であることを知らないというのは、

流通の面から見ればおっかないことではある。

「無農薬だから安全」とか「有機だから環境に優しい」でも同じこと。

 

今自分がしていること、或いはやろうとしていることを

外の世界(他)と比較参照して、結果を予測し、

生き残りをはかることは決定的に重要だ。

お客さん、ライバル、他業種、上司・部下、

自分以外の他者を観察し、自らの立ち位置を確認し、

一定の緊張感を保って物事を為せるかどうか、

それがビジネスの全てと言ってもいいのではないか。

 

親からの資産で食っていけるから、

法律や契約で身分が保障されているから、

人生なんてどうなったっていいから、

まぁ大丈夫何とかなるだろう、

みたいなことを言う連中は、やがて、

煮えガエルになってから、はたと考えることになるのだろう。

 

「生きる」ということを本当に充実させようと思えば、

 その緊張感をいかに維持し、かつ楽しめるか、

 そこに懸っていると思う。

 

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念のため補足。

物事には全て表と裏がある。

 

僕は、市場システム万歳!

ってことを言おうとしているのではない。

 

すでに誰しも分かっていることだが、

市場での価値評価そのものは絶対的なものではなく、

それは世の成り行きで移りゆくもの。

 

例えば、現在の競りの基準では、

通年での安定出荷、見た目、日持ちなどが重視され、

食べものに欠かせない「味」についてはあまり考慮されず、

まして、「農家の環境に配慮した生産手法」とか

「地域社会への貢献度」「QRで畑紹介動画に飛べる」

とかは全く配慮されない。

 

それは現状では客観評価が難しいからだと思う。

僕は来るべき時代の新しい流通システムのなかには

そうした様々な要因をチェックリスト化して、

定量評価する手法が取り込まれなければならないと思っている。

テクノロジー的にはその萌芽は十分に出ているのだから。

要は誰がどのようにパラダイムをつくるか、だ。

 

「市場」というものを、こころのない機械のように思うなかれ。

それは人の集合知そのものとさえいえる。

そして市場がどんな形になっていくか、変えていくかは、

今、食の現場に携わっている一人一人の意識によるのだ。

これからも存在し続け、進化し続けてほしい、

そんなふうに思っている。

 

様々な人とのよき出会いを通じて、

いくつもの学びを重ねるなかで

未来へのイメージは膨らんできている。

 

さぁ、一歩、一歩。