「弱さ」をどこまで許し、どこまで許さないか。
日本人は、(そして本来的にはあらゆる人間は、)倫理的な要請にさらされている。集団や空気に依存して日和見的な立場に留まるのではなく、自らの責任において考え、発言し、行動することを、引き受けなければならない瞬間がある。
福島と沖縄が、日本人に呼びかけている。しかし、私たちはこの呼びかけに対して十分に応えられていない。負担を一部の人に押し付け、後はそのことについて知らぬ振りを貫く程度の怠慢は、個人の水準では許容されるべき、たいしたことのない問題のようにも思える。
しかし、そのような不作為を、多くの人が、長い期間継続してきた結果が、明確な形をとって現れている。それなのに、私たちのこころは、その現実に直面することを避け続ける。実に巧妙に、他の問題にすりかえて、現実と出会い損ね続ける。
福島や沖縄のような大きな問題に限らず、
「強迫機制による防衛」
強迫やナルシシズムのような私たちのこころの弱さ、防衛的で明晰でないあり方を前にして、どのようにするべきなのだろうか。
ひょっとしたら、日本人に限らず、危機の渦中にある人間というのは、この程度のものかもしれないと思う。なんと言われようが、ともかく一生懸命頑張るしかない、というのが最近の実感である。今、自分が何をやっているのかは、後からしか意味がわからないのだろう。
私は、ナルシシズムや強迫のような防衛的なものに対して、それを強迫的に排除しなければならないと考えるような、こころの防衛的な状態に陥っていた。しかし、ナルシシズムのことも強迫のことも人間の姿の一つとして、受け入れることが重要だと、今は思うようになってきている。厳し過ぎる現実に急激に直面することなく、準備が整うまでは防衛的なかかわりに留めておくことは、一つの分別だろう。
(中略)
いろいろあっても、みんなで力を合わせて、この精神的な危機の時期を乗り越えられるようにしていきたい。