日々の雑感

忍びの里、伊賀の地より。オーガニックとは? 「本物」はどこに?

「弱さ」をどこまで許し、どこまで許さないか。

日本人は、(そして本来的にはあらゆる人間は、)倫理的な要請にさらされている。集団や空気に依存して日和見的な立場に留まるのではなく、自らの責任において考え、発言し、行動することを、引き受けなければならない瞬間がある。

福島と沖縄が、日本人に呼びかけている。しかし、私たちはこの呼びかけに対して十分に応えられていない。負担を一部の人に押し付け、後はそのことについて知らぬ振りを貫く程度の怠慢は、個人の水準では許容されるべき、たいしたことのない問題のようにも思える。

しかし、そのような不作為を、多くの人が、長い期間継続してきた結果が、明確な形をとって現れている。それなのに、私たちのこころは、その現実に直面することを避け続ける。実に巧妙に、他の問題にすりかえて、現実と出会い損ね続ける。

 
鮮やかな解説だと思いました。

福島や沖縄のような大きな問題に限らず、
身の回りの様々な場面で、
現実と向き合うことを妨げるのは
「自己肯定感情=プライド」を守ろうとする
ひとりひとりの心の動きだと思います。
 
自分を押し殺すように
絶えずしつけられてきたからこそ、
異様なかたちで発達してきた心の動き。

「日本的ナルシシズム」
  → 自分のプライド・面子第一

「強迫機制による防衛」
  → 自分に都合の悪い「けがれ」は徹底除去
 
今、自分の人生、
そして自分が運営に携わる事業、
その構造的な変革へ向けて、
ひとつひとつの事と向き合い続けるなか、
本質的な部分に居座り続けるのは
いつもこの心的メカニズムでした。
(もちろん自分自身も含めて、ですが。)
 
【自己肯定感情】を守るために
社会や自然の破滅を見て見ぬふりし、
人を踏みつけ、利用していくことに
何ら躊躇することがない。
とりあえずの体裁を保つ言い訳さえあればいい。
 
ここで問題にしているのは
こころの「弱さ」と呼ぶべきもの。
その「弱さ」をどう受け止めるか。
どこまでを許し、どこからを許さないのか。
 
今、僕の考える
もっとも重要な社会的なテーマは、他でもない、
「主体的な責任の引き受け」です。
 
【主体性】をどう産み出していくかが、
モノづくりだろうと、経営だろうと、
政治状況であろうと、
大きなカギを握っていると感じています。
 
少し長いですが、
ブログ著者の結論を引用しておきます。
 

強迫やナルシシズムのような私たちのこころの弱さ、防衛的で明晰でないあり方を前にして、どのようにするべきなのだろうか。

ひょっとしたら、日本人に限らず、危機の渦中にある人間というのは、この程度のものかもしれないと思う。なんと言われようが、ともかく一生懸命頑張るしかない、というのが最近の実感である。今、自分が何をやっているのかは、後からしか意味がわからないのだろう。

私は、ナルシシズムや強迫のような防衛的なものに対して、それを強迫的に排除しなければならないと考えるような、こころの防衛的な状態に陥っていた。しかし、ナルシシズムのことも強迫のことも人間の姿の一つとして、受け入れることが重要だと、今は思うようになってきている。厳し過ぎる現実に急激に直面することなく、準備が整うまでは防衛的なかかわりに留めておくことは、一つの分別だろう。

(中略)

いろいろあっても、みんなで力を合わせて、この精神的な危機の時期を乗り越えられるようにしていきたい。

 
良くも悪くも、俯瞰してみれば、
最終的な結論はここにしか置きようのない、
というのは事実でしょう。
 
ただ、僕自身が置かれた状況のなかで学んだのは、
「弱さ」に自覚的でない者に対しては
寛容を貫いたところで、何も生まれない、
ということでした。
 
ということで、しばらくの間、
僕は「戦闘モード」に入ります。
それがどこまで続くかはわかりません。
 
ひとつ言えること。
それは僕らのミッションが何なのか、
少しくっきり見えてきたということ。
 
「弱さ」を意識しつつも、
現実と正面から向き合い、
ひとつひとつのことに答えを出して
日々を生きていく人間を支えたい。
 
そして願わくばそんな人間を
社会のなかへ一人でも多く輩出したい。
 
そんなふうに思っています。
 
 
次の時代を創っていくために。
 
行けるところまで行ってみましょう。