日々の雑感

忍びの里、伊賀の地より。オーガニックとは? 「本物」はどこに?

愛宕参詣

皆さま、こんばんは。

 

今日は思うところあって

「火迺要慎(ひのようじん)」のお札で有名な

京都の【愛宕神社】にお参りしてきました。

 

標高924mの愛宕山山頂にある神社にいくには

片道2時間を要するガチ登山しかありません。

 

昨夜のうちに密かに上洛して、登山口近く車中泊。

未明から喘息持ち・運動不足の体に鞭打って

氷点下の急峻を這うように登ってきましたよ。

 

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しょっぱなから続く厳しい勾配で

呼吸は切れ切れ、足は石のように重く、

本当に上れるのだろうかと時折不安に。


でも、背中に昇りくる御来光を浴びるうちに

凝り固まっていた心もゆっくり溶けて。

 

風に揺れる木々のざわめきのなか

諸々の想念が現れては消え、

淡々と足を運び続けることに意識を向けるうちに

心の嵐は少しずつ鎮まっていきました。

 

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それにしても、数えきれないくらい

いろいろなことが思い浮かぶもので。

 

大切な気づきもいくつか。

 

立ち並ぶ木々の合間を縫い、鳥居や門をくぐり、

そして敷き詰められた石や木塊を踏みながらも、

つまらない我執につかまり続けるこの自分を

これらの事物はどう見守っているか、ということ。

 

彼らの存在は「自然のまま」なんかではない。

敷設やメンテナンスをしたり、

創造して形を与えてきた人たちがいる。

自然と人とが織りなして作り上げてきた「場」。

 

そしてそれは想いの連鎖。

自然と格闘し睦み創造していく魂となるか

我を誇り孤立し怒り震える魂となるか

己の精神はどこに収斂していくのだろう?

 

日々いかに周囲を見ないまま生きているかを知れ。

 

己のものも、他者のものも

愚かさは愚かさとして受け止め、

訓え諭しながら、また、訓え諭され、

絶え間なく創り創られる世界の波のなかに

伍して列していけるものかどうか。

 

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山頂のお社は突き刺す寒さに屹立し、

それは美しくおわしました。

 

汗だくの身体が冷め切るのをそのままに

ただ深く頭を下げつづけながら

神主さんの澄んだ祝詞が朗々と響きわたった時間は

心に沁み、静かに残り続ける、

己の道標になったように思います。

 

よきものを。

 

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下りは月輪寺(つきのわでら)ルートで。

ガクガクいう足を時折滑らせながら

最後は清滝の沢の音のするほうへ、

とん、とん、とひたすら降りて行きました、とさ。

 

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***

 

それにしても、ふと気づけば最近は信仰ネタつづきですね。

  

今の自分が置かれた状況を考えると

やむを得ない気もするのですが、

こいつ、宗教にハマって頭(現実の生活)は大丈夫か?

と思われている方も多いでしょうから、念のため。

 

えーと、多分大丈夫だと思います。多分w。

野菜収穫したり、商談したり、帳簿つけたり、

資本政策やったり、源泉徴収したり、

まぁ日々何かとバタバタはしていますよ~。

 

今日だって愛宕下山後、伊賀に取って返して

夕方一杯かけて某大手通信会社の若手チームと

地方創生~農と食のIT化(イノベーション)を

テーマにした中身の濃いブレストをやってたし。

 

ただ、実際のところ、一起業家、一企業経営者として

これから先の事業ヴィジョンを真摯に考えるなかで、

「宗教」から学ぶことが非常に沢山あるなぁ、

というのが最近の実感です。

 

有体にいえば、これからのビジネス(経済主体の動き)は

もっともっと政治(とりわけ自治)や宗教と

分かちがたく融合していくんじゃないかと。

 

高度成長期から今に至るまで、見かけ上、

政治や宗教とビジネスとが分離されていましたが、

歴史を振り返ってみれば、

そんなことはむしろ特殊状況なのかもしれません。

 

階級・権力闘争や戦争、貧困や飢餓が

すでに日常化してきている世界のなかで、

「お金」の流れ方はどんな風になっていくのか?

あるいは、どんな風になっていく「べき」か?

 

神社の参道や鳥居、建物の建造・保持や

日常の業務オペレーション(つまり「業」)について

想いを巡らせながら、

その提供するサービスの必要十分性や

内部留保の使われ方、出資(寄付や浄財)のありかた

などについてつらつらと考える。

 

僕らがこれからの社会を再構築していくためのヒントは

ジャンルにこだわらず学んでいくことが大切かな、と。

できるかぎり多様なレイヤーを重ねること。

 

伊賀ベジやへんこが社会的公器として

存続し続けるために求められる形とは?

 

...

 

少しずつ絵は描けてきたように感じています。 

タブーは無しです。

ベストなものを追い求めたい。

 

ってことで、皆さまも火の元には十分お気をつけて。

 

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