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日々の雑感

忍びの里、伊賀の地より。オーガニックとは? 「本物」はどこに?

胎動

 

自分のなかから、何かが生まれ出ようとしている。

 

僕が長らく続けてきた

「自立と共生」を追求する旅は、

これまで想像もしなかったような形で、

今、新たな展開を見せようとしている。

 

この流れが僕をどこへ運んで行こうとしているのか、

正直のところ全然分からない、というのが実際だけど、

もう身を任せてしまうしかないのかな、と思う。

 

無為。

 

今はただ、淡々と知的整理の作業を繰り返している。

これから生起してくる出来事に備えるべく。

過去を振り返る。アーカイブを整える。

そうして歴史の深淵を覗きこむための

言葉を研ぎ澄ましていく。

<道具のメンテナンス>だね、これ。

 

大丈夫。

 

事態は徐々に追い付いてきたようだ。

未来は明るい、そんな気がする。

 

12年以上前の自分のメモを振り返りながら

個と全体のあり様について何度も何度も考えている。

 

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2004/1/16 (Fri) 永遠の仮象

それは一体いつだったろう?
人が「個」を前提として生きるようになったのは?
有機的に繋がれたシステムの運動の断片であることを止め、
自由な意志を持つ主体を信じるようになったのは?

生命はその誕生のときから「個」としての機能を内蔵してきた。
時を生成し、全てのものを拡散させていく宇宙のなかに、
局所的にその流れに逆行する領域が形成され、
その境界が一個の生命体を規定した。
この生命運動は宇宙の流れに押し流されるどころか、
次々と新たな領域を獲得していった。
運動はゆるやかに束ねられ、二重三重に連なり、
複雑な境界の階層構造を形成するに至る。

だが境界内部の構造は外部との相互作用なしには維持し得ぬ。
否、生命運動とはそもそもその作用のあり方を指すのだ。
周囲の時間を加速することで、己の時間を緩めあるいは逆行させること。
生命はいつだって関係そのものである。

たとえ人が一つの境界の階層を「個」として捉えるとしても、
現実的にはその「個」はネットワークの結節点に過ぎない。
人間同士のネットワーク ~ 社会
他の生命とのネットワーク ~ 例えば食
非生命とのネットワーク ~ 例えば呼吸

 

今日、僕が考えておきたいのは人間相互の関係のこと。
柄谷行人の言葉に着想を得て、自分のなかに育ってきたイメージを
一度言葉に落としておく必要性を感じていたんだ。
関係の中でやりとりされるもの、つまり交換媒体について。
僕は暫定的に次の4つの交換媒体(交換されるもの)を想定している。

① 互酬、恩義の感覚:
 持ちつ持たれつ。水平的。夫婦、兄弟、お隣さん、同僚。

② 支配・被支配:
 守護と導きに対して隷従で応える関係。垂直的。親子、師弟、上司と部下。

③ 貨幣:
 交換を行なう人の生活上の必要性に応じて生じる「価値」の物差し。
 ものさしでありながら、同時に「等価」なものを交換するための媒体。
 蓄積可能で資本へと転化する(「個」による所有)。

④ 言語:
 生きていくために必要なものを得るために他者にその願いを伝達する媒体。
 無意識の伝播機能(テレパシー・非言語コミュニケーション)
 の不足を補うために生じる。
 蓄積可能で文化や知へと転化する。(集団による所有)。

ここで提示するそれぞれの交換媒体は独立なものではなく、
またそれ故非等価的で、必ずしも同一位相にはない。
①②は無意識的(感情レベルのこと)かつ没個的。
③④は意識的かつ個を促進するもの。
③貨幣や④言語を利用して展開される運動には
必ず①互酬、②支配・被支配の感情が背景に働いている。

始原状態を考えてみれば、③④は恐らく①②の進化形態だと思われるが、
現代の現実局面では①②は既に③④を内包してしまっている。
貨幣は最初、互酬を想定して交換されるが、やがて支配・被支配をもたらす。
言語は「切り取る」構造から支配の色が強いが、結果的に水平展開しやすい。
だが③④両者ともその蓄積によって権力構造を形成することに違いは無い。

 

交換媒体のこうした分類法がその力を発揮するのは、
そのそれぞれが用いられる関係の集積体が、
僕らが日常的に経験する社会システムのありかたを規定するからだ。

① 共同体(生活共同体)
 互酬の感覚を基本交換関係とする集団が共同体の原型だ。
 日本的会社システム。ムラ。

② 国家
 支配・被支配の関係は必然的に権力構造の形成へと導く。
 国家。イエ。

③ 資本主義
 貨幣を媒介にした関係の運動は、必ず資本主義を生み出す可能性を孕む。
 資本主義とは貨幣の蓄積増大のための自己運動であり、
 増殖のための再投資が図られ続ける。
 なお貨幣が死蔵される場合、それはもはや資本主義運動ではない。
 (いくら低利でも銀行に預ければそれは投資である。⇔箪笥貯金)

④ 文化(言語共同体)
 一つの言語を交換媒体とする集団は「文化」を形成する。
 生成の仕方を考えれば、生活共同体を土台にして生じるのは明白だろう。
 なお、ここで僕が注目しているのは英語とか関西弁という
 具体的な言語そのもの (シニフィアン=意味するもの)というよりも、
 むしろそれによって表現されているもの(シニフィエ=意味されるもの)
 であることを付記しておく必要があろう。
 方言や言語を持つ地域社会。民族。イデオロギー・パラダイム共有集団。

ちなみに柄谷が模索している「アソシエーション」とは、
①~④の全ての交換形態を蕩棄していくことによって
作り出される何らかの社会システムのことである。
具体的には世界宗教にそのヒントを求めることができるだろう。
交換そのものを一旦廃棄し、あらためてそれを実現する、
そんなダイナミックなプロセスの継続が必要だということ。

 

さて、僕が今日、本当に考えたかったのは実はここからなのである。
すなわち、交換媒体がはらむ永遠への幻想について。
これについては岩井克人の幾つかの著作から着想を得ている。
僕らが柄谷の言う「アソシエーション」を目指すとき、
これら全ての交換形態を蕩棄しながら、それを再び回復せねばならない。
このプロセスによって一体どんな出来事が起こるというのだろう?
そこに焦点を当てるためにも、「永遠の仮象」の問題を考える必要がある。

先に挙げた①~④の全ての交換形態に共通するものが実はある。
それが交換そのものを成立させるための必要条件となっている。
交換媒体が交換媒体として永久に使用可能だという共同幻想。

何故恩義のシステムが機能するかといえば、
自分が相手に何かをしてあげれば、相手がそれを恩義に感じ、
やがていつの日かそれを自分に返してくれると信じているから。

何故支配・被支配のシステムが機能するかといえば、
自分が従順にしていれば自分は永久に庇護されると信じているから。
自分が正しく支配していれば、それに見合う奉仕を受け取れると信じるから。

何故貨幣のシステムが機能するかといえば、
相手がいつだって貨幣を受け取ってくれると信じているから。

何故言語のシステムが機能するかといえば、
相手に自分の言葉が伝わるはずだと信じているから。

それは全て幻想に過ぎない!
交換に関わる人間同士がいつもその幻想を支えあっている。
その幻想に綻びが見えたとき、そのシステムは一気に崩壊する。
僕らはいつだって、そうした危ういものの上を生きている。

 

この不安は実は全ての人に(少なくとも無意識的には)感知されている。
だからこそ多くの人はより確かな安定を与えてくれる
「永遠」の欠片を求め続ける!
皆がこの不安を抑圧し続けることによってこそ、
この永遠幻想によって支えられた交換媒体は機能していく。
媒体は着々と蓄積され、ムラを、国家を、資本を、知の体系をつくりだす。

様々な交換形態によって仮象された「永遠」は、
僕らの生を次々と疎外していく。
疎外された人間はその生命力を失い、更なる不安を抱かざるを得ない。
負のフィードバック機構がここから逃れることをどんどん難しくする。
不安を原動力とした永遠ゲームはいつまで続く?
ババを引くのは誰?

僕らの解放は、そして「アソシエーション」の実現は、
この馬鹿げた遊びからの脱却によってしか為されない。
だけどそれはどうやって?

 

実はそれはそんなに難しいことじゃないと僕は思っている。

今、ここで、ただちに出来るんだ。
周囲の人と連帯しようなどとしないこと。
それはもう、共同体に呑まれている。
社会なんて変えようとしないこと。
それはもう、国家に呑まれている。
金を集めてばら撒こうなんてしないこと。
それはもう、資本主義に呑まれている。
完璧な論理によって説明し尽くそうなどとしないこと。
それはもう、言語に呑まれている。

そうした全ては、解放された結果として起こるのだから。
駄目だよ、そんなことしちゃ。

ポイントはただ一つ。
今を生きるということだ。
「目的」などという、先延ばしの習性を廃棄すること。

 

空を見よう。頭を空っぽにして。
ゆっくりとお茶を啜ったりして。
食事をつくって、味わって食べて、
洗濯して、掃除をして、それから歌を歌ったり。
身体を動かそう。身体とともに生きる。
目を見て、しっかりした声をだして話をしよう。
朝起きて今日の計画を立て、夜寝る前に今日の出来事を振り返る。
幻想を意識的に創りだそう。
抑圧された無意識としてではなく。
己の従うべき倫理コードを確立させよう。
感情を抑圧するのではなく、
喜び、怒り、泣き、笑って、踊ろう。

そうしたことを馬鹿げてると思うあなたは可哀想。
永遠ゲームの駒として生きるあなた。こっちへおいで。

 

こうして語る内容は、皆「当たり前」のこと。
昔々から、多くの人が自然に語ってきたこと。
繰り返しになるけれど、
周囲との連帯も、社会の変革も、経済的なやりくりも、知の構築も、
全て僕らの充実した生の「結果」として起こってくることだから。
慌てなさんな。ちゃんと進んでる。

「アソシエーション」なるものの実現に際しては
世界宗教がヒントを与えてくれると書いていたが、
それは宗教の中にここで語ったことのエッセンスが、
ギュウっと凝縮されて詰まっているからだ。
容れ物から作るのではない。僕らは神じゃないから。
僕らはいつだって僕らをつくることから始めるんだ。
「自然体」って案外難しかったりするけど、それを探すこと。
それが最近流行の「自己組織化」ってのに繋がっていくから。

 

一歩。また一歩。

 

永遠の呪いから逃れ、
永遠の仮象を振り払うとき、
永遠は向こうからやってくる。

 

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