日々の雑感

忍びの里、伊賀の地より。オーガニックとは? 「本物」はどこに?

本質的な課題に向き合うのか、コミュニティの維持を求めるのか

何かこういうの見るたびにげんなりするなぁ(+_+)。
 
貧乏人を助けてあげようという名目のもとに、
理不尽に薄々(あるいははっきりと)気づきながら
ばらまかれる金にたかる餓鬼のような人の群れ。
 
ビジネスの世界では、相手を依存させることが
よい商売になるというパターンがすごく多いわけで。
麻薬売るのとか、まさにそうだもんな。一番儲かる。
 
でもその先に何があるの??? 。。。
 
このあたりのテーマって、
もともと自分が農業始めたときから
根底にあった問題意識だけど、
本当に「皆が」幸せになるためには
結局「自立」ということが一番大切なんだと思う。
そして暮らしの基本(衣食住)を 自らつくっていくことこそが
「自立」の第一歩だと思ってきたのだけど。
 
ま、今時そんなに簡単じゃないかもしれないけど、ね。
 
「つくること」
 
「産み出すこと」
 
「生存」ではなく「生きる」こと。
 
互いが自立するのを助けることこそが
コミュニティの真の役割なのではないのかな???
 
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で、翻って見ると、 日本の農業への補助金だって
構造としたら似たようなもんじゃないだろうか?
 
農業の抱える本質的な課題の解決よりも
農業関係者のコミュニティを持続させるために
緩~い目的意識で、たくさんの金がばらまかれ続けてる。
 
補助金配るルートに乗った役所とか組織とかコンサルとか、
補助金なくなったらやることなくなる人沢山いるもんね。
 
5兆4000億円の売り上げを持つ業界に対して、
真水で4兆3000億の補助金をぶち込まれてる。
加えて農業関連の事務間接部門(役所とか)の
人件費など考えてみると、そりゃ結構なことだわさ。
 
とはいえ、ま、業界全部合わせても
トヨタ27兆に遠く及ばないわけで。
この世界の経営センスのなさがほとばしる感じ。
力もない中間管理職(的な俸禄取り)にじゃぶじゃぶ金使って
それをリストラさえできない構造になっている。
 
いや、みなさん、いいの、これで?
食べるものをつくる仕事って
結構重要だと思うんだけどなぁ。
 
諸々の補助金があるゆえに
経営ヴィジョンもなく、技術も学ばない
そんな農家がゆるーっと生き残って
社会の変革なんかには目もくれず、
目の前のパイにしがみついて、こそこそと奪い合う。
 
餌くれ餌くれ、って待ってる家畜の群れみたい。
 
で、自分のコミュニティの存続に関わるときだけは
必死に声を上げるわけで。
いや、遅いって。
井の中の蛙、どんだけ視野狭いねん。
 
いや、そんな構造に自分たちの食をゆだねるくらいなら、
せめて野菜や米くらいはみんな自分で作っちゃえばいいのに。
え、田畑がない?鍬も持ったことない?
じゃあそういうことができるような仕組つくればいいじゃん。
なんでも甘えて待ってりゃいい、ってもんじゃないし。
 
社会のなかの「暮らし」をみんなで
再構築していけばいいじゃないのかな?
もう、そういう風にしてる人は一杯いるし。
 
あ~あ。 勢い込んで、
ついつい色々書いちゃった・・・。
 
翻ってわが身を見ると、
ま、決してそんな大層なものではないんだけどさ。
ただ、少なくとも、こんなふうにしていたら、
僕らの種族は生き残れないんちゃうか、
という感覚を持ってしまう以上、
そこにふたをしても仕方ないし、
ま、やれること、やれる範囲でやっていくしかないのかな、
と淡々と生きている訳だから。
あ、「淡々」のわりには忙しいけどw。
 
さ、余計なこと言ってないで、
積み上げた仕事片づけよ~。
 
生きるぞ。
 
今日も暑いですなぁ。
 
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追記
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つい書きなぐっちゃったので
読み返して少し反省したりして・・・。

補助金を受け取っている誰か特定の人を
批判したくて書いたわけじゃないです。

なんというか、こういう構造的な社会問題に触れると、
大したこともできないまま、右往左往を続ける
自分自身に対するいら立ちもあって、
ついついキツイ言い方になっちゃうんですよね。

最近は「力」に屈する、という感じが
以前にもまして嫌で嫌で仕方ないのです。

どうだオラオラ、って来る人たち。

こう決まっているんだから、こっちが常識なんだから、
受け入れろ、って来る人たち。

「空気」読めって、押し付けてくる人。

流れがスムーズにいかなかったり、
和が乱れたりするとすぐ怒りだす人。

僕は今、自分の気持や意志に反して、
押し付けられてくるものがとにかく嫌。
きれいごととか何とかじゃなくて
感覚的にもうホント嫌。
それっぽいにおいのするものに、
ものすごく反応してしまう。

「力」を用いて人を無理やり従わせるのであれば、
それは「レイプ」に等しい。
人は慣れればそういう事態も平然と受け入れるように
なってしまうのは知っているけれど、
やっぱ嫌だ。

自らが「力」に屈したことを許せず、その復讐のために
結局は「力」に頼ってしまう、それが人の弱さというもの。

できることなら「力」を行使する側にも、される側にも
立っていたくないのよ、本当は。

でも、なかなかそうはいかないのでね。

お金でも、国家でも、権威でも、
村や組織でも、世論でも、
別にいいじゃんそんなもの、
ってさらっと受け入れてしまえば
そりゃ大したことないのでしょうよ。
その護りの下で生きていくことができるあいだは。

多数派は抑圧された少数派の存在に気付かない。
何もなかったのように踏みつぶしていくものです。

強いもののほうへ、強いもののほうへ。
弱きものの存在は不可視化される。

流れのなかで自分が踏みつぶされる側になると、
積極的に抵抗するのはしんどいから、
せいぜい、受動的に、だらだら受け流すことで抵抗する。
その場、その場をごまかせればいいじゃない?
そのうち長いものに流されていくんだ。

きっとほとんどの人が、どこかで、己の弱さ故に、
自分を押しつぶしてくるその「力」に屈し、
長いものに巻かれたことはあるだろう。

だが、長いものに巻かれた人は、
必ずや、「力」を行使する側になるよ。

やがて「常識」を武器にして
それを無意識のうちに振りかざして支配しようとするよ。

「ふつう~」

あ~この言葉、大っ嫌い。

それにしても、いつでも多数派、
なんて人はいるのかしらね?

世界はそこらじゅう罠だらけだし。

「力」なんていうものは、
「力」に屈した人たちが互いに支え合う、
無常な幻想のようなものなのに、ね。

お金も、食べ物も、名誉も、何もかにも、
結局自分が本当に幸せになるために
欲するものなんじゃないの?
所詮手段でしょ?

じゃあ幸せはどこにある?

ニコニコ笑っているのが一番。平凡が一番。
それホント?
笑って飲み込めばいい?
踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損、損?

誰にでも適用できる真理なんてないのだろう。

僕にはよくわからないな。もう。

僕はただ、どこまでも正直になって、
心の奥底にちゃんと向き合って、
「からーん」ってなるくらい、
そんな気持ちで生きていたい。
そんな気持ちで人と付き合っていたい。

ビジネスだって、政治だって、宗教だって、
自分も人も、皆で幸せになろうというのであれば
結局のところ、それが一番の早道なのでは?

そんな気がしています。