六角堂にて
昨日、ぜんそくを診てもらっている
漢方のお医者さん@京都に行ってきました。
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痛風も併せて診てもらったんですが、
気の流れが滞っているということで
生まれて初めて鍼灸をうけることに。
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足~腰~首などにプスリ、プスリ、
ふと気づけば腫れもすーっと引いていきます。
帰りの道中では腰のあたりがぽかぽか暖かくなって、
自然とすっと背筋が伸びるようになっていました。
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で、朝起きてみたらここ数日のあいだ、
ひたすら悩まされてきた全身のだるさが抜け、
気分すっきり、久々にやる気がぐんとUPしました。
おかげさまで気持ちもめっちゃポジティブに。
東洋医学の威力を思い知った出来事でした。
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診察の合間には医院近くの【六角堂】にお参り。
叡山を下りた親鸞上人がここに百日間参籠し
専修念仏に帰依したという因縁の地。
こころを空しくして、他力本願に専心できるよう、
ただそのことを念じてきました。
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自らの能力や心身を鍛え続け、守り抜く、
そんな自力救済の思想にも一理はありますが、
ひとりひとりが全体ネットワークに
強く接続された現代にあっては
「個」「身内のこと」に執着しすぎると
全体の破たんを引き起こします(合成の誤謬)。
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人間関係に限定せず、地球の<いのち>全体の
ネットワーク(生態系)として考えれば、
より明白なのではないでしょうか(環境問題)。
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<いのち>とは何なのだろうか?
それはどこへ向かおうとしているのだろうか?
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不透明で見通しがつかない時代だからこそ、
そんなことが問われる場面が多い気がします。
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細胞たちが共創するネットワークとして
「私」という意識が存在するように、
幾多の<いのち>の統合体であり、居場所である、
組織や村、国、生態系、地球といった、
有機体そのものにも<いのち>が宿り、
それ自身が「生きていく」意志を持っています。
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ホログラムのように描き出される、
幾重にも重なる<いのち>の層のなかで、
個々の存在はしのぎを削って生きようとします。
そんな世界のなかに置かれた、
細胞でもあり、また、統合体でもある、
私たちの存在のかたち。
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自分を超えた、一つ上の階層の<いのち>は
私たちにとって「神」として機能します。
その「神」の意志は、細胞である私たちには
はかり知ることができないものです。
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私が私の細胞たち(身体)を粗雑に扱うとき、
細胞たちは自分に何が起こったかと思うでしょう。
私のことを呪っているかもしれません。
でも私自身、もっと大きな系の一つの細胞として、
絶えず翻弄されながら、必死で生きているのです。
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細胞たち(身体)が私に存在を委ねることで
私という<いのち>が生かされています。
一方的な関係ではなく、互いに依存しあう関係として。
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遺伝子工学が明らかにしたように
細胞一つ一つはクローンとして個体をつくる
十分な情報とポテンシャルを持っています。
にもかかわらず、彼らは「私」を構成する
ひとつひとつの機能を担い続けてくれる。
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個が全であり、全は個である(梵我一如)。
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そんな言葉が浮かんできます。
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では私は?
私と社会、私と自然との関わりはどんなだろう?
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何が良いとか、悪いとか、
簡単に決めることなんてできませんね。
今はただ、<いのち>の活き(はたらき)に身を委ね、
己を愉しんで生きていくしかないかな、と。
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周囲のことにビクビクしても仕方ないですもんね。
「不安」は満たされないこころがつくるもの。
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大丈夫。
孤立してるわけじゃない。
腹の底から愉しく生きていれば、
内なる<いのち>、外なる<いのち>
どちらからの微細な信号も
感受できるようになっていくのでしょうね。
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手放す。
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手放す。