いのちを育てる
「いのち」あるものを「育てる」ことは
自分が理想とする「鋳型」に押し込むことではなくて、
相手の生理(いのちのことわり)をよく観察し、
それを動かしていくエネルギーの流れ、
生育を支える「根」や「土壌」の為す構造をつかみ、
その伸び行く姿をしっかりイメージしたうえで、
そっと、己の「いのちの時間」を
分け与えていくことだと思うのです。
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懇切丁寧に指導することは、ちょっと油断すれば、
相手を育てる側の思い通りにするため、
つまり相手を「支配すること」になりかねません。
それは一見手っ取り早いように見えるかもしれませんが、
長い目で見れば、相手の伸び行く力を奪い、
また、教える側の成熟するチャンスを失わせて、
両者を包む、より大きなコミュニティ、人のつながりから、
いのちの躍動を消失させる可能性が高くなります。
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野菜や米のような植物であろうと、家畜であろうと、
子供たちや会社のスタッフであろうと、
家族、村、会社、地域、国のような
組織やコミュニティであろうと、
生まれては消えゆく「プロジェクト」であろうと
生きていく意志を持つ【現象】=「いのち」を
より豊かなものにしていくことが
「育てる」活動の意味なのではないか。
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「育てる」ことは己の存在を相手に「与える」こと。
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己のいのちが相手に正しく与えられ、
そうしてそれが正しく用いられるとき、
私は私の役目を終え、ほっとしながら、
大きないのちの元へ還れるのではないでしょうか。
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そんなとき、私がイメージしているのは、
私の細胞たちが、新陳代謝という形で
幾多の生と死を紡ぎながら、代々に渡って、
「私」という演目を演じ続けていく、
そんな現象。
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全てのいのちは、生と死のサイクルを繰り返して
つながり、手渡し、継承し、
その流れが大きないのちを紡ぎ出していく。
その大きないのちも、生と死のサイクルを繰り返し、
さらに大きないのちが紡がれていく。
そうやって、入れ子構造のように折り重なって、
いのちは続いているものなのです。
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そんなシンプルな道理を忘れてしまうような
こころ無い、つまらない世の中は、
徐々に終焉を迎えつつあるんじゃないかな(^-^)
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いのちよ蔓延れ。