動的平衡を考える(その1)~国家と生態系
朝鮮半島を巡る緊張を眺めながら感じたのは
我が身の危険的なものでは全然なくて、
これからの世界はどうなっていくのか、
僕らはこの現代社会をどう生きていくのかを
「立体的に」捉えることの重要性でした。
国家間のやりとりは自分達に関係ないどころか
身近な人間関係の在り方と密接に繋がっており、
むしろリアルな拡大投影図のように感じられたのです。
で、どっぶりと浸って色々考えていたのですが、
なかなかキレイにまとまりきらないので
頭に浮かんだいくつかのイメージを足早に浚って
今後の思索の足場にしていきたいと思います。
★「国家」という統合形態の限界と来るべき共同性
今回の一連の出来事は「国家」間の争いですよね。
ただ、その前提となっている「国家」の意味は何だろう。
少し前の記事で目を引いたものがあったので引用します。
・第一の国家観では、国家を、ひとりひとりの人間の
共存と福祉のための公共財である機械装置と考える。
・第二の国家観では、国家はひとりひとりの生命を超えた、
より高次の崇高なる集合的生命とみなされる。
この記事の著者は「個」を土台にした第一の国家の側に立ち、
全体主義的な国家の危険性を指摘し、批判します。
とはいえ、現代の混沌とした時代情勢のなかで
「ひとりひとりの生命を超えた集合的生命」
の存在が強く求められているのは紛れもない事実。
それでも、これほどまで多様化した社会のなかで
その標を国家に求めてよいのか、ということが
問題になっているように思います。
(「ムラ」「会社」あるいは「家族」でも同じこと。)
僕自身の感覚では、多様性~カオスに飲み込まれて
「集合態」と化した国家に「共同性」を求めることは
もはや救いにならないように感じられます。
孤立し荒んでいく「個」の心を満たすために
「神」の存在をどこに見出していくのか、
その実体を構成する組織態はどんなものになるのか?
ひとりひとりの物心両面を支えてくためには
単一のわかりやすい<象徴>で統合するよりも
幾重ものレイヤーが重ねられるような
構造が求められているのかもしれません。
歴史を振り返ってみると、宗教と国家とが
完全に切り離された状態というのは
かなり不自然な状態なのですよね。
「科学」「合理性」も一種の宗教と捉え、
その基盤が揺らいでいる現在の時代情勢を
どんな風にとらえればよいのでしょう。
ふと、歴史家トインビーを思い出してググっていたら、
松岡正剛氏のブログがヒットし、ここでのテーマ、
「現代の受けている挑戦」を乗り越える方法の一つとして
ディアスポラ~「散在体」について書かれていました。
「散在体」とは、移動する共同体であって
記憶をもったコモンズであり、
電子の網をつかった情報の複合体でありつつ、
応答をこそソリューションとする
プロセス組織というようなものなのではないか
705夜『現代が受けている挑戦』アーノルド・トインビー|松岡正剛の千夜千冊
変化の時。
既存の枠組を少しずつ解体しながら
人のつながりの新しいかたちを
模索していく時代なのだと思います。
外の世界を見ず、思考停止をして、
酔っぱらいのように全体主義を夢見つづける
「井の中の蛙」とどう対峙していくのか。
ハードに行くのか、ソフトに行くのか。
これぞまさに「政治」というもの。
★「生態系」という考え方
僕は「自立と共生」ということをテーマにして
有機農業に取り組んできましたが、
この業界では長らく「農薬」の使用について
色々と議論が交わされてきた経緯があります。
で、ふと思ったのですが、
農薬をどのように使うかということと
軍事力をどのように使うかということは
とても良く似ているようなのです。
虫や病気の存在を「悪」と決めつけて
農薬で徹底殲滅するという考え方を止めて
「生態系」全体のなかでの彼らの働きを意識して
取り得るオプションを模索するのが
オーガニックなスタイル。
これは持続可能な形で自然と人との関係を
築いていくうえでとても大切な思考法です。
でも消費者の側では、そんな僕らの想いとは関係なく、
我が身の安全のために「農薬」は使うべきでない、と
不安に煽られ奇妙な視野狭窄を起こす人が続出し、
「無農薬」というキーワードが独り歩きしました。
売る側もそれに迎合して調子よくやっているうちに
異常に単純化された図式が世に定着したのです。
「無農薬」=「平和」
同じような思考回路の定着メカニズムを感じます。
僕は社会や生態系そのものを<いのち>とみたとき、
それが「健康」という状態があると思っています。
そしてそれを実現するためには、
その構成要素となる人(細胞)に
ひとりひとりが自らの足で立ちながら、
共に生きているという現実を見失わない、
バランス感覚のようなものが要求されます。
応分の「リスク」の取り方、とも言っていい。
有機農業という方法論を用いてきたのは
そのための知恵を磨くためだったように思います。
守られ続けるうちに甘え、麻痺していきがちな
ヒトの本質的な「弱さ」と向き合いながら
次の時代を創っていくにはどうしたらよいか、
そのあたりのヒントが今回の事件のなかには
あったような気がしてなりません。
。。。
今日のところはこのあたりまで。
あと考えていたことは次のようなこと。
また時間があるときにまとめてみます。
★動的平衡を意識する
★秩序と無秩序のあいだ
★リーダーという機能
★家族をエンジニアリングする