日々の雑感

忍びの里、伊賀の地より。オーガニックとは? 「本物」はどこに?

安全安心の果てにある世界は?

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インターネットで入手する情報なしでは

日々を過ごすことができない時代。

お役立ちHowToを教えてくれるものから

深い気づきへの促しを与えてくれるものまで

僕らは絶えず膨大な情報フローのただ中にある。

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とはいえインターネットに流れる情報は玉石混交。

デマや思い込みであってもバズってしまえば

もっともらしく感じられるものだ。

「フェイクニュース」が当たり前の時代。

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健康に関する情報収拾サイト(WELQ)の

やり方が大きな問題になって半年ほど。

金儲けのためには間違った情報であろうと

じゃんじゃん垂れ流すことを「是」とする、

そんな企業のガバナンスが問題になった。

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自分たちの生命に関わる事態であるからこそ

情報を求める気持ちは真剣そのもので、

ネットに渦巻くこの救済を求める強いエネルギーを

ビジネスや政治・宗教に利用しない手はないのだ。

そうしてマーケッティング戦略は磨かれ続ける。

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複雑に張り巡らされた罠(トラップ)を見抜けない

リテラシー」のない人たちは

そうした罠に次々と絡め取られていく。

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でも、「世の中のことは何でも知ってる」

なんていう人間はこの世に存在するだろうか?

「教養」の在る無しは確かにあるだろうが、

リテラシーがある」と胸を張って言える人ほど

トンデモナイ迷妄に囚われていることはよくある。

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僕らは皆、「フェイクニュース」の濁流の中で

誰しも命を脅かされるようなリスクを抱えている。

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だから、こんな風に思う人たちもいるだろう。

この事態は不当だ、人を不幸にする虚偽や悪意から

社会の人たち守ってあげる必要がある。

皆が真実を知る、あるいは何が真実かを見分ける力を

しっかりつけさせる、教育していく必要がある。

できない人には常に付き添ってあげる必要がある。

そうした姿勢は子を護る親の役割に擬して、

パターナリズム」と呼ばれている。

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でも庇護者である「大人」のつもりの人たちが

本当に正しく、虚偽のないと胸を張れる

知恵や情報を持っているかといえば、

そんなことはないんじゃないか?

僕らの現実はいつもカオスのなかにあるんだ。

嘘や悪意に負けて飲み込まれるなら

それはそれで運命だからやむを得ない。

全ては自己責任である、という判断を軸に

「自立せよ、お前はお前の道を行け」

というのが「リバタリアン」の思想だ。

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かつて、国家や村や会社が「親」となり子を護った。

それに反抗する人たちはアナーキストと呼ばれた。

しかし、そうした役割が激しく傷んできたなかで

僕らはより高度な社会の統治方法を求められている。

家族そのものまで壊れてきたこの社会のなかで

秩序をつくる磁場全体が創発される時が来ている。

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僕は最近知った「リバタリアンパターナリズム

という言葉にピンと来るものを感じている。

次回開催される京大「変人講座」のスピーカー

那須さんの論文などを斜め読みしながら、

次の時代の社会の秩序形成のあり方について

思いを馳せている。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/…/210568/1/soc.sys_1…

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今回の紹介記事では、

Google が展開する Fake News との闘いのこと、

「質の高い」情報がヒットするよう

常にアルゴリズムを変化させている様子について

数値解析をしながら丁寧に解説してくれている。

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Googleが提供しようとしているのは

新しい形の「パターナリズム」に他ならない。

ただし、検索する本人は自分の意志で決定しているので、

それは「リバタリアン」の思想とも共存可能だ。

「意志」そのものがシステムのなかで

巧妙に誘導されていくような設計が施される。

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人間が安易に救済を求めてしまう心は

深い深い沼のようなものなのだろう。

自らの頭で考えるより、HOWTOを求める人の群れ…

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でもそれで何がわるい!?

ええじゃないか、「南無阿弥陀仏」と唱えていれば。

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にしても、「質の高い情報」というものは

実際のところどこまでも恣意的だよなぁ。

それを選別する基準を担うのは、今のところ人間だ。

やがてはそれを人工知能が担うかもしれないけれど。

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人々をどこへ導いていくのがよいのか?

誰がそれを導いていくのか?

知性は誰によって担われるのか?

そういう人材をいかに育てていくのか?

そこを人工知能に委ねていくことは可能なのか?

僕らの問いはそこへ集中していく。

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支配する側に立つのか、支配される側に立つのか。

その支配構造は実は、植物や家畜と、

彼らを栽培する、育成する農業者の関係と

とてもよく似ているのではないだろうか?

植物は農業者の力を借りて蔓延る。

さらに遡ってしまえば、それはそのまま、

植物と葉緑体ストロマトライト)との関係だ。

これって地球上で生命が繰り返してきた

暮らしの営み=共生そのものじゃないか。

どっちが支配しているかなんて、

もうこの際どうでもいいんじゃね?

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だから僕はもう、あまり悲観していないなぁ。

無知・蒙昧さの程度という意味では、

歴史上のこれまでの時代はもっと酷かったはず。

確かなことは、今や世界中が皆、

オープンな情報に触れるようになってきたこと。

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今はただ、僕は僕に流れ込んだ文化的遺伝子に従い、

己のリテラシーをみがくこと、

Whyを考えることを続けながら

それを後継に伝えていくという作業を

淡々と地道にやっていきたい。

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これは「道」なのだと思う。

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古来、宗教が担ってきた知恵や役割さえも

皆が当たり前に身に着けるようになっていく。

幾多の叡智が集合知として、世界共通の電脳上に

蓄積されていくという人類の挑戦を

楽しんで見つめていればよいのではないだろうか?

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落ち着け。楽観せよ。