日々の雑感

忍びの里、伊賀の地より。オーガニックとは? 「本物」はどこに?

生命現象について/秩序形成と蓄積

①エントロピー増大

学生のころ、物理学のなかでも熱力学、統計力学、
と呼ばれるような分野の研究をしていた。
とりわけ【エントロピー】と呼ばれる指標について
様々な角度から、理論や応用について延々と考え続けるなかで、
生命という現象はずっと中心的なテーマとして考え続けていた。

熱力学第二法則によれば、
宇宙の出来事は系全体としてエントロピー増大に向かう。
言い換えれば、散逸し、無秩序化、均質化していく。

コップに落したインクが静かに全体へ広がっていくように、
水が高いところから低いところへ落ちていくように、
世界は「時間」によって押し流され、
「平衡」と呼ばれる状態に向かって墜ちていく。
その逆は自然には起こらない。

少なくとも僕らが存在している、
この宇宙(時空はいくつも存在し得る)では、
ビックバン以降、ひたすら膨張しているあいだは
どうやらそうなっているようだ。

「平衡」というのはもともと、
熱現象を扱うために導入された考え方で、
例えば、熱いものと冷たいものが触れていれば
熱が移動し続けて最終的に同じ温度になって落ち着く、
その落ち着いた先の状態のことを指している。

物事には必然的に向かっていく方向があり、
最終的にほっこりと落ち着くかたちがある。
そいつが「平衡状態」と呼ばれるのだ。

ところが、宇宙全体としてはその平衡という状態に
いまだかつて辿り着いたことはなくて、常に変化の過程にある。
平衡というのは言ってみれば「涅槃」みたいなものか。

あ、もちろん、外部とのやりとりを遮断した、
ある制限した時間のなか、小さな空間においては、
平衡はわりとすぐに実現できるんです。
譬えてみれば、冷蔵庫のビンにお茶パックをいれておいて、
30分したら出汁が均一にでて出来上がり、みたいな感じ。
井の中の蛙の悟りみたいなもんですかね。


(修士論文のリンク)

Kuni's Page - Works


②生命現象とエントロピー

宇宙のなかで、こうした大河のような
エントロピー増大の流れに
逆らい続ける存在がある。

生命現象だ。

本来であれば拡散して飛び散ってしまうはずの
エネルギーや物質が一か所に集中され、
「普通なら」ありえない運動や反応が
恒常的に行われる現象。
それが生命。
滔々と流れる川の流れのなかにできた
渦や淀みのような存在。

その領域のなかだけは
エントロピーが増大どころか減少している、
つまり散逸に向かうのではなく
ある種の秩序形成が継続的に行われている、
そういうスポットのこと。

例えば光合成のこと。

地球には太陽の光が降り注いでいる。
様々な波長の光は物質と相互作用をしながら、
最終的には熱に変わり、赤外領域の放射となって
宇宙に放出されていく。
(夜間の放射冷却を思い出して。)

地球に入ってくる光のエネルギーと
地球から放射される赤外線のエネルギーの量は
ほぼ同じなので、地球のバランスが保たれている。
ところが、この入ってくる光と
出ていく放射のエネルギーの「質」は大きく違う。

太陽光はエントロピーの低い、使いみちの沢山ある、
値打ちのあるエネルギーだ。
これに対し、放射のエネルギーは質がずっと低い。
地球の中で様々な変化を経る中で、
エントロピーが増大したのだ。

じゃあ、このエネルギーの質の劣化(浪費)は
何の意味もなく、ただ無駄遣いとして行われたのか?
月とか金星とか火星とかではそうかもしれない。
でも、地球の場合は違う。

なんでかって?
それは地球が生命現象を内包しているから。

なかでも象徴的なのは光合成というメカニズムだ。

有機物(CHON)という物質は、
酸素だらけの今の地球の大気のなかでは
とても不安定な存在。
すぐに分解されて二酸化炭素や水になってしまう。
そちらがエントロピーのより高い状態、
落ち着きやすい状態だからだ。

だけど、植物が編み出した光合成と言う現象は
光のエネルギー(量)とエントロピー(質)を生かして、
二酸化炭素と水から、有機物をつくりだす術を与えた。
光を言わば雑巾代わりにして、つまらぬ物質をピカピカに磨き、
低エントロピーの宝物のような物質を得るのだ。

そうして植物はこの宝物をせっせと溜め込んで、
自分のため、そして子孫のために使い、
その繁栄に結び付けてきた。

(深堀したい人はこのへんもヒントに。)

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③光合成と資本蓄積の共通項

今、トマピケティの「21世紀の資本」を読み続けている。
歴史に残るべき、優れた仕事だと思う。
結論がどうこうというより、その手法、姿勢が美しい。
物理をやっていたときのワクワク感を蘇らせてくれる。

いずれ僕なりのまとめと整理をちゃんと書いてみたいけれど、
今はその過程のなかで、エントロピー・散逸構造と
資本の運動との対応関係を考えている。

まだ読了していないので予断をはさむかたちにはなるが、
ピケティの分析を見ていく限り、僕らの生きる21世紀は
資本による所得が労働に依る所得より強いポジションを
獲得していく流れに置かれている。

つまり、お金がお金を産むかたちが基本になるというか、
持てるものと持たざるものの格差が固定化する。
そういう感覚的に皆が感じていることを
きちんとデータを拾い集めて駄目押ししてる感じだ。

面白いのは、歴史的にデータを拾ってみれば、
むしろ格差社会は至極当たり前の出来事であって、
第一次大戦・第二次大戦のあった20世紀という時代が
むしろ非常に特異な、機会均等な平等な期間であったという発見。

奴隷を資本として定量的に評価していることも
衝撃的に印象に残った。
かつて広大な綿花畑で黒人を大量に使っていた
古き良き時代を懐かしむアメリカ南部で青春期の1年を過ごし、
Racismの歴史的残滓を体感してきた者としては、妙な腹落ち感。

奴隷というのは所有される「資本」であり、
宝石や土地や住宅と全く同等に扱いうるという事実。
奴隷のいる社会というものが逆にものすごくリアルに感じられた。
現代の会社経営においても、
人材を交換可能な労働力としてしか見ないのであれば、
終身雇用という形を想定していようといなかろうと
実は本質的に奴隷と変わらないかもしれない。

サラリーマンって要するに奴隷や。
一人一人が経営者にならな、解放はされへんのちゃうか?
でも奴隷のほうが楽と言う人間が実は沢山いるのも事実。
何となくそんなことが頭をかすめる。

とまれ、こんなふうに経済現象の動態を理解するため、
淡々とドライにお金の動きを追うことは、逆説的に、
むしろ生命の本質的なところに触れる思いがする。
ミクロな、ひとりひとりのいのちの活動の積み重ねを
統計量として集約してみるときに、それをどう理解すべきか。

愚かでくだらぬ「ヒューマニズム」に犯されて
こうした統計に意味がないというのではなく、
資本や所得という、マクロな数字から、
それを基本単位として構成している、
ひとりひとりの人という存在を
どれだけまざまざと感じられるか?

そんなことを思いながら、
資本形成に向かう人間の心理と
光合成という生産と蓄積の過程を生きる
植物の存在の形を重ね合わせてみる。

資本の蓄積を駆動するものはなんだろう?
それは実際には生命現象として普遍的な、
秩序形成の営みのなかに包括されるのではないか?

ミクロな見方をとって、
他者への共感性を喪失して自らのために溜めこむ、
そんな心理を分析する心理学や社会学へ行くよりも、
エントロピー、散逸構造の分析を進めていく方が
現実的な課題対応としては有意義なのかもしれない。
そんなことを思う。
ピケティの仕事は、そういうことを可能にする、
人の叡智の進化を感じさせる「何ものか」だ。

 
翻訳者の山形さんのアンチョコ(別途リンク)を先に読んで、
ついつい「何が言いたいのか」ということを
せっかちに追いがちだったけど、そこはゆっくり消化してみたい。

(内容整理)

kyoto-academeia.sakura.ne.jp

 


(翻訳者山形浩生さんのアンチョコ)

http://cruel.org/books/capital21c/APPikettylecture.pdf

 

(公式データ)

cruel.org

 

(岩井克人の切り口。)

toyokeizai.net



(エントロピーと資本の接続を意識している参考例)

ikedanobuo.livedoor.biz