日々の雑感

忍びの里、伊賀の地より。オーガニックとは? 「本物」はどこに?

サヨナラとの向き合い方

思考整理をするうえでよいヒントとなる文章。

この人の説明はいつも本当に分かりやすいなぁ。

 

www.huffingtonpost.jp

 

 

「大人になる」、つまり

個(自我)を確立するため、

そうして己の道を歩いていくためには、

自分を守り育ててくれた世界との決別が

何らかの形で起こります。

 

問題はそのサヨナラのしかた、です。

別離というものは本当につらいですね。

うん。

 

裁断されていく二つのこころが、

事態をしっかり正面から受け止めて

顔を上げて歩きだしていくためには

それなりの時間を掛けて、

どうにもやりきれない痛みや悲しさを

静かに飲み込み、消化していくことが求められます。

それが「喪」という期間を置く意味なのでしょう。

 

ただ、この別離のプロセスがうまくいかないまま

断つべきものを断ち切れず、

ずるずると引き摺ることはままあるわけで。

いや、むしろそっちが普通なのかも知れません。

 

そんな時、僕らのような弱い存在にとって、

現実から目を背けさせてくれる典型的な言い訳(EXCUSE)、

こころが囚われてしまうパターンが2通り。

 ☆道徳的な判断に持ち込む。

  ”皆”、”普通” こうやろ~。


 ☆あれ、何考えてたんだっけ。

  そんなの迷い、迷い、と振り切る。

  そしてそもそも何もなかったことにする。

 

これをやっちゃうと、人は思考停止して

あとはナルチシズム(自己愛、自己弁護)に

終始する日々の暮らしに入っていってしまう。

 

でも、きっと、本当は、

サヨナラは【はじまり】なのかもしれない

 

本当の自分(魂・真我)というものは

いつだって別離を契機に、目覚めていく。

 

なのに、それが阻害されてしまい、

独り立ちのチャンスを奪われてしまえば

人はいつも周りの人の目を気にしながら

生きていくしかなくなってしまうのです。

 

苦しみや悲しみ(病虫害)は

深刻な問題を起こす前に防除しましょう。

余計なリスクや手間を掛けず、効率よく栽培して

均一に、予定通りに収穫できるものをつくること、

それが社会の要請です。

だから農薬は使い続けましょう。

きっと人だって同じだから、ね。

 

うーん。僕にはそれがなかなか受け入れられないみたい。

 

僕がここまで目指してきたのは

ひとりひとりが自らの足で立ち続ける「自立」

そして、そういう存在であるからこそ成立する「共生」です。

そのために、【オーガニック】という道を選び、

ここまで何とか生き抜いてきたと思います。

 

そりゃ不器用でどうしようもないし、

人さまに迷惑ばかりかけて、

馬鹿馬鹿しいことを繰り返してきたけれど、

雨雪風に打たれ、数々の別離を繰り返しながら、

そっと拾い上げ、磨きあげ、

辛うじて守り抜いてきたものが

やっぱりここにあるのです。

 

【こころ】

 

【いのち】

 

【つながり】

 

もう、ぐちゃぐちゃで、わかんねーや、

ってなることはしょっちゅうあるわさ、そりゃ。

しんどくてしんどくて、立ち上がれないことだって。

 

それでも、

僕は「創る」ことに賭けつづけていたい。

馬鹿の一つ覚えだけど、

なんちゅうか、こういう生き方しかできないから。

 

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ひとりごと。

 

僕が傷つけ続けてきた【あなた】へ。

 

ごめんなさい。

 

ありがとう。

 

人生の時を共に過ごしてくれたこと、

こころから感謝しています。

 

僕らは立ち上がって、

歩いていかなくちゃいけない。

 

明日のため、未来のために。

 

皆がこころから幸せになれますように。

 

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以下 リンク先より抜粋・引用

 

二つで一つになっているようなこころから、どちらかが分離・独立を果たそうとする時に、その両者のこころの状態には深い退行(幼児返り)が起きます。クライン派の精神分析が妄想分裂ポジションと呼ぶ、非常に強烈な攻撃性が刺激される状況で、野放しにされた場合に、その分離独立の動きは妨げられ、二人以上のこころが融合したような共生状態に引き戻されることになります。

実際に外側に現れる言動としては目立たないものであっても、そのような密着したこころを分離させることがひき起こす痛み(罪悪感に近いかもしれません)は、大変な苦痛をもたらします。そこで無理に分離を果たそうとすると、とても危険な事故が起きる可能性も、決して低くはないのです。

この、密着したこころの状態から自分が離れることを意識しただけで個人が感じるこころの痛み、この内的な体験は、人間の集団における凝集性を高め、一体感を維持することに役立っています。私的でローカルな集団であるほど、全体をまとめるためにその傾向に強く頼っていることが普通で、大規模な公的な集団になると、このような目に見えない心理的な拘束力だけではなく、さまざまな可視化されたルールや契約・義務の観念などで補強されていくようになります。

その中で、日本社会の特徴は、集団の秩序や凝集性を維持するための仕組みとして、この心理的な機制に過剰に依存し、他のルールの設定などへの努力が乏しいことであると、私は日頃より考えておりました。そんな中で、先日の芸能界でのSMAPの騒動は、そのことへの確信を強めてくれた出来事でした。

 

現在、日本人のこころが(日本人だけではないかもしれませんが)、どんどんとナルシシスティックな方向に退行を強めている嫌な感触を持ちながら生活をしています。ナルシシスティック・パーソナリティーの特徴は、自分が得意な、他者からの賞賛を期待できる事柄については、非常に高い能力を示すことです。

 それと同時に、自分の弱みが露呈してしまうような内容については、極端にその能力が低下します。なぜなら、得意なことをしている時には、ナルシシズムが満たされるし、苦手なことをしている時には、ナルシシズムが傷つくからです。

さて、ビオンという精神分析家によると、こころが適切に現実に出会えるか否かについては、3つの段階があるそうです。

 

 (1)適切に考えることができる段階

 

 (2)道徳的な断定を行ってしまう段階


 (3)そもそも、不快をもたらす対象を、
    なかったことにしてしまう段階

 

さすがに日本は大国なので、さまざまな分野で有効な活動を継続しています。ただし、最近はそういう部分をアピールして、賞賛されることを求める傾向が高まっているようです。そして、SMAPやベッキーらの不倫騒動に見られるような、道徳的な万能感を発散させるだけのような話題も、相変わらず嫌いではないようです。

しかし、重要なのは、なかなか解決策の見つからない、しかし本当に重要な国家的な課題について、知ろうとするこころの機能が働いていない点でしょう。こころから「排除」されています。