読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

日々の雑感

忍びの里、伊賀の地より。オーガニックとは? 「本物」はどこに?

思考と感情の棚卸

元旦から引き続いてしばし時間をとって、
ここ最近身辺に起った諸々の出来事を見つめ直す。

日々の喧騒のなかで受け止めきれず、
捩じ伏せ、打ちやっておいた感情や思考を
静かに闇の中から解放してやると、
それはざぁーっと体の中をのたうっていく。

独り深くもの思いに沈むうちに
自分という存在は、徐々にバランスを崩していく。


「奇しうこそ物狂ほしけれ」


足元からひっくり返りそうになって
空間ごと揺さぶられるなか、
自分のなかから這い出してくる感覚や欲望、
諸々の情動の様をただ茫然と見つめ続ける。

存在を否定したくなるような
醜く恐ろしい情念だってあるのだけれど、
そいつを観察し尽くし、その言い分を聞きながら
有り余るエネルギーの向かう先を変えてやらないかぎり、
きっといつまでも負の縁起として
自分の足を引っ張り続けるのだろう。

いや、でもこれ結構つらいわ。
固着されていた観念めいたものが
怒りや悲しみといった感情として
蘇ってざわざわと溶出してくる。
涙がボロボロ出てくる。

さぁ受け止めきれたのかな?

分からない。頭が重い。
 
昨日読了したタイのお坊さんの本を通じて得られた
様々なインスピレーションを泳がせて、つなげてみる。

煩悩との対峙。苦しみからの解放。
喜びを生きていくためにできること。
今、転機に置かれた自分の進むべき道を探る。


光と闇は対をなしながら共存していく。
禍福はあざなえる縄のごとし。


ふと、12年ちょっと前に小乗仏教について
思考を整理していたことを思い出して
過去ログを漁ってみた。

4年務めた会社を辞めて1年間のサバティカル。
旅と思索と暮らしと表現の日々。

そのときの日常のかたちや、
己のなかに存在していた感情を
ゆっくりと思い出してみる。

 

・・・

 

うん、大丈夫。

よろよろとではあるけれど、
何とかまっすぐ歩き続けてきたと思う。

 

今の自分の存在形態、そしてこうして
展開しつつある事業の種(因)は
あのとき流れた時間のなかで
ここに蒔かれ、育まれたものに違いない。
様々な出会い(縁)のなかで
思いもよらなかった方向に
伸びていっているような気もするけど。

 

明日の形が見えてきた。

 

原点へ。そして未来へ。

 

道は続いていく。



************************以下引用***************************

 

「大乗か 小乗か」2003/10/11 (Sat)


御土産にもらった比内鶏の燻製をアテにして
下宿の面子でこじんまりと飲み会。
ちょっとヤル気を出して料理を考えてみた。
ししゃも、山芋スライス、にがり豆腐、
ほんで松茸の炊き込み御飯。

要は自分が食べたいもの。
別にそれほど手間も掛からない。
存外体裁の整った皿をつつきながら、
エビスビールをちびちび飲む。
ジンワリと幸福感を味わう。
たまにはこういうのもいい。

・・・

小乗仏教の研究をしている人がゲストに来て、
とても面白い話を聞くことができた。
仏陀は何を考え、語っていたか、その原像を想像する。

人が幸せであるためには、
己の一挙手一投足をきちんと意識的に制御することが大事、
彼が考え、実践したのはそういうことだったように思う。

そうする内に精神も身体も自由になり、
やがて怒り(ルサンチマンとも言える?)が薄れていく。
そのあたりは今の僕には非常にしっくりくる。

最近はそれと重なるようなことに「気付く」ケースが多い。
例えば部屋の掃除をしたり、
スーパーの袋を畳んだりするなかで、
自分が解放されていく感覚を得る。

思考によって究極的な答えを探すよりも
目先の小さなことを大事にすることが自分を救う。

それは全然あきらめということとは違う。
僕は相変わらず言葉を紡ぎ続けようとするし、
むしろ積極的に世界に向かうようになっていく。
それを常に持続させるのは難しいのだけど。

実践すること。すぐ。主体的に。丁寧に。
無意識に埋もれていることはとても多い。
それを掘り起こし、一つずつ秩序に戻していくこと。
仏陀のように、意識を身体性に向けることは
とても自然なことに感じられる。

 

僕は完全なる「解脱」を信じることはできない。
全く波打たない心など、社会との関わりを絶たぬ限り有り得ない。
仏陀も人間であった以上、「悟り」を開いたあとも
それなりの心理的動揺を経験したはずだ。
でも彼はきっとバランスを保つソリッドな方法論を確立したのだと思う。
(殊によるとそれを「解脱」と呼ぶのかもしれない。)

僕にはまだそこまでのことは判らない。永遠に判らないかもしれない。
それでも生のバランス感覚を磨くことができ、
自分が少しずつ前に進むことを知っている。

己のことは己が制御せねばならない。
だが、それはとても難しいことだ。

現代、僕らが晒されているストレスは二千年前とは桁違いに強いだろう。
僕らの心身は今や切り刻まれて商品化されている。
それが僕らをどんどん苦しいところへと追い込んで行くんだ。
だからこそ、僕らは今、自給自足をしなくてはならないのだろう。

自分の身体や無意識が求めるものを、自分が供給する。
満たされぬ心を自分で満たす。あるいはそれを宥める。
お金で買ったり、人から借りてきたりするのではなく。
方法は自分で試行錯誤しながら見出していくしかない。

仏陀の知恵はそれを助けてくれるだろう。
自分を超えて溢れだすくらいに、豊かなものを創り出せれば、
それが結果的に社会をゆっくりと変える。 
 

日本では小乗よりも大乗の教えが広く受け入れられている。
だが、大乗は仏陀自身の言葉から大きく離れていると言う。
自給自足を離れ、超越者による救いを期待することにより。

小乗の門は狭き門。
徹底した自己管理を要求するが故に、
俗世を生きるものには厳しすぎて実行が難しく、
結果として多くの人が救いから切り落とされるから。

改めて法然や親鸞のことを考える。
彼らは仏陀の教えを堕落させ、つまらないものにしたか?

僕は決してそんなことは無いように思う。
彼ら自身、決して自律を蔑ろにはしていなかった。
だが、個が社会に溶け出してしまうような文化のなかにあって
自分という存在の小ささを実感していたに違いない。

意識的に「大きなもの」に身を委ねることが、
「個」に固執する心からの解放に繋がると見たのだと思う。
解脱を目指す者たちの序列構造に嫌悪感を感じたりもしながら。

彼らが求めたのは超越者への甘え(→造悪へ到る)、ではない。
むしろずっと主体的な没入だったはずだ。
超越者を感得することを通じて個を限定し、
そのどうしようもない小ささを噛みしめることが、
仏陀が得たであろう心身のトータリティの回復(=解脱?)に到る
早道だと考えたのではないか。

自分の行為の影響と帰結を正確に認識せざるを得ない状況に追い込まれ、
「罪を犯した」と感じる者は、結果として自分をとても小さく感じるが、
それはつまりは自分を無意識から引きずり出しているからだ。

自らの存在をヒリヒリするほど自覚的に生きているとき、
それは仏陀の言う解脱に近づいていないか?
だからこそ「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」でなのではないか?

僕は思う。
超越者を認識することと、自分を律することとは、
矛盾しないどころか完全に両立する。
むしろ不可欠な両輪のようなものではないか、と。

弁証法はここに機能する。
超越者を知る者は個を知るものであり、
個を知る者はその生を完全に生ききるのだ。
そうして個を生ききるものは超越者を知る。

そこが個と全の結節点だ。ここで飛べ。

・・・

「末法の世」という意味では現代はもう圧倒的に「末法の世」だ。
僕らの救いは今一体どこにあるというのだろう?

現代の諸問題は、超越者が人間存在全体になっていることに
大きく由来している気がする。(→トインビー的史観)
一見大乗的なのだが、超越者の座には神や阿弥陀仏の代わりに
「人類の叡智」が君臨している。
それに身を委ねてしまえば、人は安住を得る。

だが、当然のことだが、人は自らを人類と重ねて考えているので、
その心は本当に小さな自分の存在を知るチャンスが無い。
社会への屈従は辛いけど、その見返りに得ている
圧倒的な力の感覚を捨てることは難しいのだ。

自分の行為の帰結を考えるよりも、
社会システムの良し悪しを先に考えるとしたら、
そこには「個」の感覚の倒錯がある。

僕らは忙しい。
僕が会社に勤めているときに、最近のような思考ができたかと言えば
それは無理だったろう。そして今またあそこに放り込まれて
改めて自分のペースを作れるかといわれてもあまり自信は無い。

現代の時間の流れ、エントロピーの増大速度は圧倒的だ。
「個」の感覚を正常な位置に置くこと、
それが己の心身の解放に繋がるはずなのだが、
実際のところ、そいつがとっても難しい。

今僕が言えること、それはただ馬鹿みたいに、
「ゆっくり行こう」
と繰り返すだけ。

自分が無意識的になってしまうとしたら、
見えぬ者に追われて急いでいるから。
自分のやっていることを
できるかぎりしっかりと認識しながら生きよう。
ほんのわずかずつでも良いから。


(補)

>一般的誤解
で、結局何が解決するのか?
結局世界は変わらないじゃないか、
自分だけ幸せな気分になるだけで。
それはただの逃避じゃないのか?

>独り言的反論
己を幸せにできぬものに社会は変えられない。
ゆっくり自分を満たして行こうよ。
そうすればやがて世界は変わっていく。
それ以外の道は全て永久闘争の道だ。救われぬ。
 


(過去ログ:2003年10月11日「日々の雑感」より全文引用)

​引用元:http://murayama-farm.com/old-kunis/zakkan/03_10.html#10111