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日々の雑感

忍びの里、伊賀の地より。オーガニックとは? 「本物」はどこに?

手放す

9月に入ってすぐ、痛風の発作を起こしました。

初めて経験する激しい痛みで、歩くこともままならないんです。

3日程度経つと痛みは去って、ようやく普通の生活に…

と思ったらまた朝が来たら別のところが痛み出します。

4日おきほどで、3回の連続発作。

間歇的な発作を繰り返す中で、エネルギーが削がれ、

ちょっと大げさかもしれませんが、

落とし穴に落ちて、山積する日々の問題に埋もれきって、

生きていく気力を失うような感覚に襲われました。

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しばらくお付き合いしてきた喘息の発作の場合は、

息が苦しくなってくると、頭がぼんやりして

感覚がマヒしていくようなところがあるのですが、

途切れぬ痛みのなか、思うように身動きできない状態って

案外自分の深いところを攻撃してくるものですね。

幾度か発作を経験するうちに、徐々に慣れてきましたが、

この間、随分いろいろなことを考えました。

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最初の激痛のとき、聖書のヨブ記を貪るように読みました。

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こんな風に苦しむのはいったい何故なんだろう?

自分なりに真剣に手を抜かず、正しくあれるよう、

必死に物事に向き合って生きてきたつもりだけど、

そのこと自体、神の業を認めぬ不遜な行いだったろうか?

身の程もわきまえず、偉そうに裁いてきたことへの罰?

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こんな目に遭うのは悪いことをしてきたからに違いない、

聖書では3人の友人たちがヨブを責め立てる。

神に誠実にあり続けたつもりなのに何でこんな目に…

富も家族も健康も一切を失ったことを呪い、死を希うヨブ。

神さまの正義はどうなってるんだ?

何かちょっと間違ってるんじゃないの?

下々まで目が届いてないんじゃないの?

と苦しみの中で、不満を神にぶつけ、問い続けます。

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聖書では最後に神がヨブの前に現れて、

「何偉そうに言うとんねん、お前は神か?

頭が高い、生意気なこと言わんと、平伏せよ!」

となって、ヨブはハハーッてなるんですよ。

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僕の場合も、色々と雨風に打たれるなかで

ともすればつい、生きる力を失っちゃって、

神を呪いたくなる気持ちになっていたのだと思います。

今もまだ、完全にそれを抜け出られていないのでしょうし。

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自己防衛のためか、体全体が発熱して

38.5℃の熱にうなされる日々も重ねながら、

あーあ、やんなっちゃう、って思いましたね。

負けない、乗り越えてやる、復讐してやる、

もうそんな気力は沸いてこないな、自分には。

かつて自分が頼りにしていた不屈っぽい根性を思うと、

今となれば、だらしない、怠け者になりきってしまいました。

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でもね、

<いのち>は残されているんだ。

だからそこに頼るしかない。
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同時に読み進めた「アップデートする仏教」

からもいくつかのヒントを得られたように思います。

曹洞宗の坊さんたちが海外で修行をし

「マインドフルネス」の世界に触れながら、

現代における仏教の在り方について対談したもの。

現代を生きる人の心を救済するための「仏教3.0」。

生老病死のなかで執着し続ける意識を捨て切るとき、

自分のなかに青空が広がって、それと一体化する。

それこそが<いのち>とつながった自然体の自分になると

いうことなのでしょう。

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世界のためによい仕事をしたい。

そのためにもシャープに研ぎ澄まされた自分でいたい。

きちんとした集中状態=「フロー」の状態で

常に仕事をできるようになりたい。

自分ができなきゃ、人にそれを指示することだってできない。

経営者たるもの、まずは自分の心を空しくすること。

そんなことが「ことば」としては入ってくる。

あとは、自分が自分の心身のバランスを保って、

日々を丁寧に生きていけるかどうか、なのでしょう。

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3度目の痛風の発作がようやく収まってきた。

留まることなく流れゆく思考のなかで

ふと自分という現象の全体像を見渡そうと、

過去の自分の雑記を読み返していたら、

わりとタイムリーな内容を見つけた。

13年前の自分に檄を飛ばされる。

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手放すこと。自由になること。

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【不安との対峙】(2003年11月11日「日々の雑感」より)

http://murayama-farm.sakura.ne.jp/old-kunis/zakkan/03_11.html#0311111

ときおり不安に呑みこまれて動けなくなることがある。
いつの間にか忍び込んだ小さな種が、
やがて自分のあらゆる場所に絡みつく蔦となり、
思考の、そして身体の自由を奪ってしまう。
そんなことがある。

明日の授業が上手くいかないかもしれない不安。
仕事が見つからず、貯蓄が尽きてしまうかもしれない不安。
このまま自分が何も産み出すことなく死んでいくのではないかという不安。
人からバカにされ、嫌われ、あるいは無視されることへの不安。
体が蝕まれやがて自由がきかなくなることへの不安。

不安は様々な要因からなる混合体だ。
それは無意識のまま僕の内をふらふらと浮遊する。

だが、何かのきっかけでふと気付くことがある。
そうした不安を一つ掴まえ、きっちり分析してみると、
案外大したことではなかったり(→強迫神経症的)、
今考えても仕方ないこと(→目の前の問題からの逃避)だったりするのだ。
アウシュビッツにでも放り込まれていないかぎり(実はそれでさえも!)、
その不安を少しずつ除去していく道は必ずある。

全てが思い通りになることなどありはしない。
一個の人間にとって世界はどこまでも不条理だ。
だからといって何だというのだろう?
それはただ「現実」でしかないじゃないか。
僕らはその「現実」と格闘する方法を身につけなくてはならない。
ひたすら「現実」を見据え、自分が取る行動を決めよう。
絶対的な解などどこにもありはしない。
面倒なことに、僕らはいつだって自由だ。

不安は欲望の裏返し。
僕はそういう風に考えている。
何か得たいものがあり、それが遮られているからこそ、
身体(無意識を含む)はストレスを感じている。
それはとても重要な認識だ。
そこから不安を乗り越えていくための方法論が導かれるから。
忘却を信じてただ嵐に耐えるのではなく。

不安の責任を外部の対象に帰さないこと。
本質的な原因は何かを「求めている」自分にある。
自分が本当は何を求めていて、それが何に遮られているのか。
もしもそれが解ったなら、
求めるものに一歩でも近づくために出来ることをリストアップし、
最も効率の良い道と思う道を選べばよいだけだ。
決めたらすぐに動き出すこと。
動かなきゃ何も始まらないし不安は消えない。
不安に怯え、それに食い尽くされないように逃げ回るのは、
むしろ不安にせっせと栄養を与えているだけだ。

他人と比較して自分がどうかなどと考えることは無意味だ。
自分の中にある醜い欲望を恐れても仕方が無い。
それも「現実」なのだから。
タブーを無くす。一番素直な自分になる。
裸の自分と向き合うことがスタート地点だ。
意識と無意識の対話。
それができて初めて、意識は矛盾しあう欲望の調整装置として機能する。

「自分と向き合う」っていうのをなめちゃいけない。
自分のことを完全に解ることなどありえない。
「わかっている」と思えば思うほど、
思考は無意識化し、不安は制御不能の領域へと拡散していくものだ。
時には他人の方がよっぽどわかってることもある。
顔つきや目つき、行動が隠されたものをも曝け出すから。
実際のところ、僕らはいつもストリップして生きてるようなものだ。
裸の王様。

不安が身体性と密接に結びついているという認識も大事だ。
風邪をひいたときなど、訳も無く様々な不安が強まる。
逆にストレッチ一つで不安が静かに鎮まっていき、
前向きに物事に向かえることだって多い。
身体(無意識)の声にきちんと耳を傾けること。

ところで人に対する苛立ちや同情や心配が固着化されるのは、
それが自分の不安の投影となっているときだ。
心が満たされぬときほど人のことに思考が行く。
対象に寄りかかる事によって自分の不安と向き合わないで済むからだ。
己の不安に対処できない者に、人のことなどどうにかできるはずもないのに。
外観と異なり、これは実はとてもナルシスティックな欲望と関係している。
敵や被保護者を通じて、自分の存在意義や優位性を確認するのだ。
無意識のうちに隠微に味わわれる感情。
そんなものがあることに気づいたらさっさと投げ捨てよう。

不安の構造の把握は一筋縄にはいかない。
一つの不安は他の不安を育て、互いに複雑に絡み合う。
そうしてそれは無意識の中に埋没していることがほとんどだ。
根本に抱える欲望は簡単には見出せない。
自分の欲望そのものの在り処が解り難い時代になっている。

キレイにお膳立てされた枠の中に納まっているかぎり、
自分の行動を選択肢の中から選んでいるかぎり、
全てが説明可能だという風におもっているかぎり、
金が本当に何かを解決してくれるとおもっているかぎり、
自分が満たされることはない。

それにしても自分の抱える不安を切開するとき、
「社会」からの乖離を恐れる感情の意外な強さに驚かされる。
それは多くの場合「べき」「ねばならない」「してはならない」等という、
強制・禁忌のコトバとして表現されてくる。
一見意識的にも見えるが、根本にあるのは恐怖の感情である。
この恐怖が結果として意識の専制を招き、自分の衝動は抑圧される。

そう、そのせめぎ合いが不安となってぼんやりと浮かび上がってくるのだ。
生まれた時から社会の中で育てられている以上、コトバを話す人である以上、
どう足掻いても僕らが社会から完全に自由で居られることはあり得ない。
様々な社会規範(タブー)が僕らの無意識の深いところに根を張っている。

だが、果たしてこうした乖離への恐怖は「現実的」だろうか?
子供のときのように無力の状態ならば、
或いはファシズムの圧政下に置かれているならば、
確かにタブーを犯すことは直接死を意味するかもしれない。
しかし今のこの豊かな日本にあって、一体何を恐れるというのか?
飢えが人を殺すのではない。
飢えへの恐怖が人を殺し、また殺させるのだ。
僕らがまず振り払わなきゃいけないのはこの無意識の「恐怖」ではないか?

自分の恐怖と対話してみる。
周りをびっしりと覆ったものを削ぎ落としながら。
するとその恐怖の核は案外他愛も無いものである場合が多い。
そいつだけなら、今の僕なら何とかなるはず、というものばかりだ。

恐怖の核にまとわりついているもの、
それは時によって刻みつけられた何者か。
「どうせ自分じゃ駄目だ」という敗北主義。

煎じ詰めるとそれは「面倒くさい」ということなのではないか?
闘うこと、体を動かすこと、突き詰めた思考をすること、
何を面倒くさいと思っているかは時によるけれど。
怠け心は諦めと連携していく。

タブーは文化であるとも言えるし、
実際のところそれは自分のアイデンティティを支えてくれるものだ。
それを破壊してまで生き抜いていく「自信」などなかなか持てやしない。
寄って立つものを自分で創りだすのはキツイ作業だ。
それでも「面倒くさい」に負けることは、
生命力低下のしるしなのではないか?

二つの道がある。どちらも楽な道ではない。

① 茨の道
自分が求めるものを得るために、闘い続け、
廃墟の上に砂の城かもわからないものを築くのか。

② 共同体と心中
共同幻想に抱かれ、タブーを守り、
無意識のうちに不安と恐怖を押し込むのか。

僕の中ではとっくに答えは出ているはずだ。
今更戻る場所は無い。
醒めた意識とともに進め。
生はもともとダイナミックなものなのだから。
全てを抱こうとせず、ただ目の前の「現実」と向き合って生きよ。
生を生きよう。

不安との対峙は続く。
でもここには光が射している。
求めよ、さらば与えられん。