日々の雑感

忍びの里、伊賀の地より。オーガニックとは? 「本物」はどこに?

お金の起源は『記帳』にある


********** 引用 ************** 

「お金の起源は『記帳』にある」

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今世紀の生き方の指針として、

マーケット(金)で解決しないこと、

価値と信用の創造力を身につけること

の2点が挙げられる。

*********** 引用終 ***********

 

 

変わりゆく世界のなか、僕らの今の営みが、

歴史の大きな流れのどこに置かれているのか、

できるだけ自覚的でいたいと思う。

なかでも、「お金」がどうなっていくのかを

理解することはとても重要だ。

社会に参画し、ビジネスを回している以上、

根底にある、どうしても避けて通れないテーマだ。

.

蓄積されれば大きな「力」として機能する「お金」。

でも、もとを辿ればそれは人々の持ち寄りや与え合いを

記録(LOG)するための仕組(記帳方法)にすぎない。

人びとが織り成す関係の歴史を記録する媒体であり、

創造性ある人たちによって産み出された

「価値」や「信用」を流通(共有)するためのツール。

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ストックして安心を得るための備えにするのでなく、

どこまでもフローとして、機能として捉えていくこと。

淡々と価値や信用の創造力を磨き続け、

そのことをお金の収集と蓄積とは切り離して考える。

つまり、マーケットから距離を置くこと。

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お金を「力」として用いないこと。

絶えずツールとして用いること。

 

以下 引用先全文

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先ほど、ウォールストリートジャーナルの購読を止めた。月額3000円は質の高い経済情報の対価として妥当だった。だけど僕には世界を動かしているパラダイムが変わったように思えるし、そうなると記事のテーマにも違和感を感じるようになった。

今、お金がいったん本来の姿に戻ろうとしている。お金の起源は「記帳」にある。人々は昔、それぞれの持っているものを提供しあっていた。ちまたで言われているようなリアルタイムの物々交換は実は存在しなかった。それは不便すぎたからだ。そうではなく、あげたもの、もらったものを互いに記帳していったのだ。記帳からくさび形の文字が生まれた。お金が先で文字があとで発明された。中世ヨーロッパでは年に一度、リヨンの大市で取引の精算が行われた。複式簿記が広がった。会計に優れた商人が権力を持つようになった。

やがて王の持つ権威と、商人の権力が協力する形で中央銀行ができた。最初の中央銀行はイングランド銀行だった。英国王は戦争で国庫が窮乏していたし、国際商人達は自分達の私的取引による商規模拡大に限界を感じていた。両者の思惑が合って、国家がお金を作って市中に流すようになった。いまでもその中央銀行がお金を作り、コントロールしている。もちろん裏でコントロールしているのは商人である。これは400年間変わっていない。陰謀論に興味は僕はない。ただたいていの中央銀行の株主は民間(商人)と国家が半分ずつというのは事実である。(「21世紀の貨幣」フレデリック・マーチン)

さて、今起こっているのは中央銀行が終わろうとしていることだ。この国でももう日銀は円を刷りすぎたし、米国でも中国でもそうだ。何かを創り出すよりもお金を刷ることで為政者が机上で経済をまわすのは無理だ。やがて中央銀行通貨の価値はなくなる。新しいビットコインの本質は通貨でなく、記帳の履歴を完璧に暗号化することだ。本質的意義はよくいわれるような仮想通貨(Bitcoin)ではなくブロックチェーンの新しい記録装置(bitcoin)である。

さて、ウォールストリートジャーナルはFRBを中心に中央銀行の金融政策の情報の質と量が圧倒的なメディアである。だが経済は今は別のところで回りつつあると僕は感じる。それは個人の信用と互いの取引である。僕はこのメディアの前提となる中央集権的な経済システムの考え方に違和感を感じている

お金は大事だ。しかしそのお金の本質を知り、お金の源泉を得ることの方が大事だ。

お金は持ち寄りとその与え合いの記帳からはじまった。それぞれが産み出した価値を提供し、記録することがその源泉である。やがてその価値創造と貢献の記録は貯まって信用となる。その信用が貨幣という形で世の中に出回る。それがお金のしくみだ。貨幣自身には価値はない。その元にある信用が貨幣というメディアの価値を担保する。「譲渡可能な信用」それこそがお金の定義である。信用なき貨幣に価値はない。国家はもはや凋落している。残るのは徴税権と交戦権だけだ。それを行使することを匂わせるしかない。昨今の右傾化も増税も背景は単純だ。

ひるがえって個人は各々の信用を世界に創り出すことができる時代となった。かつては1つの村や島でしか信用は流通できなかった。今は違う。世界のどこでもその信用は流通しうる。
個人に必要なのはお金(中央銀行通貨)を得る力でなく、価値と信用の創造力だ。

お金とはまず価値を作り、マーケットに行ってそれを換金することで得るものだ。だが今はマーケットに行かない。むしろ個人間の信用取引で価値を流通できる。家を借りるために不動産屋に行き、車を手に入れるためにカーディーラーに行き、家具を買うために大塚家具に行くのは今世紀の生き方ではない。家も車も家具も近くの私的ネットワークで手に入れることができる。空室率は25パーセント、車は5700万台ありこの数字は10年前と変わっていない。つまりモノは世にありあまっている。わざわざマーケットまで行き、お金を作って手に入れる必要がなくなっている。個人間取引のメルカリアプリで80万のベッドも100万の新古車も、知識を持ち丁寧で誠実であれば10万円で手に入る。大切なのは個人間の信用である。マーケットであえて買う必要があるのはAmazonの生活必需品と交通機関だろう。今や個人はその知識と信用を駆使して、中央銀行通貨を介さずに互いに安価に価値を交換する度合いが急激に増えているのだ。それを知らない人ほどお金を求めるがそれは旧時代のパラダイムだ。縁は円より強し。これは標語ではない。事実だ。

今世紀の生き方の指針として、マーケット(金)で解決しないこと、価値と信用の創造力を身につけることの2点が挙げられる。マーケットで解決しないとは私的ネットワークとその信用残高で価値交換する姿勢、創造力とは既存の物事の新しい組み合わせのことだ。その知識と実践こそが今世紀のすべての人に求められているのだ。