日々の雑感

忍びの里、伊賀の地より。オーガニックとは? 「本物」はどこに?

「つながらない」ことを考えてみた。

 

「つながらない」ことを選んで生きる。

 

っていう文脈の内容が流れていて、

何だかこれがグッと刺さった。

 

SNSという強力なツールが浸透してからというもの、

人と人とのつながりが可視化されて、

便利で心強い面もある半面、

何だか常に人とつながっているみたいで息苦しい。

 

今みたいに電脳空間でつながるまでは、

家に帰る、あるいは旅に出たりすることで、

人間関係をオフにして自分の世界に入る、

そういう逃げ隠れできるところが

もっとそこら中にあった気がする。

そんな感覚を持っている人も多いのではないか?

  

はじまりはポケベルとか携帯電話かなぁ。

どこまでも追いかけてくるつながり脅迫装置w。

その追尾機能がどんどん向上してきている感じ。

最初からこの世界を生きてる若者たちって大変だぁ。

 

人間って勝手なもんで、

独りでいりゃ寂しくなるくせに(生存の不安?)、

つながりが濃くなれば鬱陶しくなる。

思い通りならない、縛られることが増えるから。

それがたとえ、夫婦であろうと、親子であろうと、ね。

 

ま、あんまり人に期待するからあかんのやな。

甘えず、恐れず、高をくくることなく、

適正な距離を保てるかどうか。

で、必要なところだけ、互いにつまみ食いするw。

それでいいんじゃなかろうか。

 

そいつが難しいんだけど。

 

 *****

 

ちなみに、「つながらない」ことにかけては

田舎の在所の人のバランス感覚ってすげぇと思う。

狭い村のなかで近所の人とべったり「つながってる」くせに、

心理的には全然、恐ろしいくらい「つながってない」w。

互いの実利、生活のためのトレードオフの関係が主だ。

 

農業をはじめて、田舎の村の人達を見て感じたのは、

肩を寄せ合うくらい近いところで生活をともにして、

毎週末のように共同作業とかやってるんだけど、

その関係が想像以上にドライだったってこと。

 

お互いの家の人のことまで、それこそ何代も前から

隈なく良く知ってるという、恐ろしく丸裸な関係。

隣の懐事情、家族一人一人のこと、金や恋愛のこじれ、

知ってるけど大抵は知らないふりして、

みーんな飲みこんで日常を生きていく。

だって逃げ場はないんだから。

 

互いにしゃべる言葉は乱暴でぶっきらぼう。

何度も何度も同じことばが繰り返されたり。

でも、案外、ぐるーっとまわってるうちに、

時折、ズバッと、本質を射抜く。

 

ディスイズザ田舎。

ディスイズザ共同体。

 

町の人なんか、田舎のじいちゃんばあちゃんが

何くれとなく世話やいてくれて、優しくしてくれて、

野菜でも持ってけ~、とかそういうイメージあるかもしれんけど、

いやぁ、確かに日常でそういう面は間違いなくあるけど、

もっとずっと腹の探り合いみたいな

暗~い部分を感じることの方が多いっすよ。

 

僕らみたいな新参者は行動を逐一じーっと見られていて、

ちゃんと村のルール通りに草刈ってるかとか、

農機具変えるの見てこっちの懐具合を探ったりとか、

まぁ、マジ陰で何言われてるかわからんw。

油断も隙もない。

 

それは伊賀の人たちが根性悪いから?

と思ったこともあったけど、どうもそれは、

日本の社会が培ってきた知恵なのではないか、

と最近は思うようになった。

 

油断も隙もない田舎の世界を泳いでいると、

そのダイナミズムの中で、体幹が鍛えられる感じがするのだ。

なにくそ、とか、後ろで舌をペロリと出しながら、

徐々にちょっとやそっとのことではめげない自分がつくられていく。

そしてふと、それがここに存在する共同体によって

支えられてきたことに気付くのだ。

 

それはちょうど、自然のなかで風雪雨に打たれ、

獣や虫に責めさいなまされ、へろへろになりながら

有機農業をやってきた中で学ぶことと

全くシンクロした出来事のように感じられる。

 

人は孤立した存在ではなく、

つながりのなかで活かされているということ。

そして、矛盾するようだけど、

自らつながりを断ち切ることにこそ、

高次のつながりへの道しるべが存在する。

 

何だかそんな気がする。

 

 *****

 

SNSのような情報共有のしくみは

世の中を「村」化する方向に押しているかもしれない。

お互いがどっぷりつながって、丸裸に。

居心地悪いかもしれないけど、

僕は案外、そっちのほうが人間としては

デフォルトに近いかたちに近づくのでは?

という気がしている。

 

そうして丸裸になりつつなお、

自分を保ち、バランスしていくための

生活の工夫をしていけばよいのだ。

 

関係を断つ。

 

自分がひとりぼっちでいられる時。

唯我独尊の感覚を得られる時。

そういう時を持つことはとても大切。

 

瞑想し、自然の中で光や風を感じてみたり、

音楽を聞いたり歌ったり、

スクリーンから離れて、

「つながらない」時間をつくる。

 

そうすることによって、はじめて、

自分の生活をささえてくれている様々な生命を感じ、

そこへの感謝の念を持って生きることができる。

 

人と人、人と自然とのつながりを取り戻す。

 

尊敬する伊賀の有機農業者の先輩が言ったという

とても印象に残るたとえ話がある。

 

僕らが米粒だとすれば、

餅になってはいけない。

おにぎりになろう。

 

何だかこの辺のどこかに、

僕らの進むべき方向があるのではないか?

 

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