日々の雑感

忍びの里、伊賀の地より。オーガニックとは? 「本物」はどこに?

烏合の衆の可能性

blogos.com

 

ワイワイガヤガヤの空気感、

罪人こそ往生するということ、

そのあたりに闘える組織をつくる

ヒントがあるように感じました。

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薄氷を踏むような修羅場を

涼しい顔をして歩むためには

騒々しい多様性を楽しむ感覚が必須。

尖った異質なもの同士の相互作用が

状況を突破する推進力を生む。

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「今」を生きぬく。

倫理性

wired.jp

 

二十歳の時、大学に合格して
入学手続に京都に行ったときに読んでいたのが
岩井克人の「ヴェニスの商人の資本論」だった。
父がこれを読めって手渡してくれたのを覚えている。

そのときは、なんだか難しくて、
何を言いたいのかさっぱりわからなかったし、
宿泊していた部屋に本を忘れて置いてきちゃったw。

でもそれから10年後、三十歳になって会社を辞め、
様々な本を読み漁って様々なことを考えていた時、
お金~資本がどのように振る舞うかについて
最も深い洞察を与えてくれたのは彼だったと思う。

資本は「差異」を求めて動く。
商人は2つの世界の間にある「価値の落差」を利用し、
その間を媒介することで、利潤を生み出す。

南米の銀は現地ではありふれたものだし、
インドでは胡椒が珍しくもなんともない、
そんな二つの世界へ船を出して両者をつなぐ。

南米では10の銀を1の胡椒と交換し、
インドでは10の胡椒を1の銀と交換する。

両者をつなぐものは、価値の落差がなくなるまで、
己の富を生み出すことができるのだ。
南米、インドどちらでも銀と胡椒が当たり前になるまで、
ヴェニスの商人の活動はつづく。

そう、資本は「差異」を求めて彷徨う。
商品が世界中で当たり前のものになるまで、
つまり「差異」がなくなるまで、
そこから利潤を生み出そうとして動く。

多様なものが均一になっていく現象、
物理学に親しんだものは
それをエントロピー増大とよぶ。

商人はエントロピー増大過程を生かして、
利潤(貨幣の蓄積)を蓄積し、
大きな力(購買力)を得る。
この力をもってして、
さらなる利潤獲得のチャンスを狙う。

これはちょうど、川をせき止めたダムで
水が高いところから低いところに落ちる性質を生かし、
電気をつくりだすことと似ている。

光のエネルギーが熱に変わっていくことを利用し、
無機物(CO2,H2O)から有機物(CHO)をつくりあげ、
己の体を創り上げる光合成反応にも似ている。

そう、宇宙の大きな川の流れのなかに
小さな水車のような仕掛けをつくって
有用な仕事を為すことこそが生命活動の一つの本質。

だから資本の運動というのは、いうなれば、
生命活動そのものだといってもいい。

商人の活動は肉食動物が食べ物を探すのと似ている。
食べ物を消費して自分を生かす。
一次生産する生き物(植物/農家)を利用することで
己のいのちを生きながらえさせる。

良いとか悪いとかじゃない。
そういう現象、そういう存在として生かされている。
問題はそういう存在様式が持続可能なのかどうか、だ。

肉食動物だけ存在するような生態系は存続できるか?

エネルギーの一次生産をする(=光合成をする)生命と
どのように共存するか、そこのところが
肉食動物(商人)が次代へ生き残るための知恵。

あるいは、人はそれを「倫理」と呼ぶのかもしれない。

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「いのち」は「いのち」の多重構造になっている。

細胞があつまってひとつの個体をつくるように、

ひとりひとりの主体的に社会をつくる存在があるからこそ、

社会そのものがひとつの生きた生命のようにふるまうのだ。

自分を超えたより大きないのち(企業、国家)を

動かすものは、その構成要因のひとつひとつのいのちから

信任を得ることなしに存続することはできない。

岩井克人の別の著書

「会社はこれからどうなるのか」で示したように、

会社というものは株主の所有物ではなく、

それ自体がひとつの「いのち」なのだと思う。

そのことを忘れて利益追求に走る群れには

永く続く歴史が与えられることはないのではないか?

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「いのち」についての学びを

もっと皆が分かりやすいかたち、

つまり新しい科学として体系化する

そんな必要性をひしひしと感じる最近。

「場の研究所」の清水博さんの著作を読み進めながら、

今の自分にできることは何なのだろうか?

不安に走り勝ちな心を宥めながら、

一生懸命考え続けています。

ホーム - 場の研究所 ホームページ

 

引用先---------------------------------- 

これは凄い興味深い話。

公益資本主義を補強しうる素晴らしい研究

定量的な貨幣論や経済論を突き詰めると
結局は人間社会の定性的な[信任論]を論じることになる・・・という話

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重要なことは、現在のような高度情報化社会では、人間は誰でもある分野では専門家として振る舞わざるをえないということです。その部分では、自分の利益を抑えて倫理的に振る舞わざるをえない。そして、実際に、多くの人がそう振る舞っているからこそ、われわれの生きている社会は成り立っているわけです。

世界にはいろいろな問題があります。問題だらけですが、そうした信頼関係がなかったら、きっと世界はもっとひどいものだったはずです。資本主義社会とは、個々人の自己利益追求にすべてを任せている社会だと考えられてきましたが、その資本主義社会、常に崩壊する可能性のある資本主義社会が曲がりなりにもある程度生きながらえてきたのは、いろんなところで倫理性をもった人間がいるからだということに気づいたのです。

最近は、会社の経営者たち、さらには専門家たち、ということはすべての人に対して、あなたたちは倫理的義務を負っているんだということを伝えるのを自分の使命と感じ始めています。

 

WE ARE NATURE

www.schumachercollege.org.uk

 

Yes, we'll grow wiser.

No need to hurry, we are on our way.

Let's just keep walking,

with peace of our mind.

Please don't be afraid,

because WE ARE NATURE.

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Schumacher College has been seeking

alternative academic approach to

face various issues in the world and/or universe.

Their fundamental philosophy is based on

Ernst Friedrich Schumacher's concept of

"Small is beautiful".

https://www.amazon.com/Small-Beautiful-Economi…/…/0061997765

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James Lovelock who advocated "Gaia theory"

and many other scientists has also been involved

to push their concept to go forth.

In 2003, I've spent several days in their campus

in Devon, UK, and found their effort quite impressive.

Looks like the era has come when the seed comes to life,

and be widely shared in this world...

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★紹介記事は科学と古来の知恵を融合していくことで、

 自然を利用する、という考え方から、

 自分を自然そのもの一部と捉え、自ら自然を創成する、

 という考え方に切り替えることを勧めています。

 もし現状のままで20年ほど突っ走ってしまえば、

 人類の生存を持続していくのが困難になるかも、

 そんな状況のなかで、地球に生きる僕らが

 これから取り組むべき学びに向けたヒントが

 数多く含まれているように感じられました。
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(以下は個人的なコメントです。)
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そう、人は賢くなっていく。

慌てない、ちゃんと近づいているから。

一歩一歩歩き続ければいい。

心を穏やかに保ちながら。

怯えなくていいよ、

僕らそのものが「自然」なのだから。

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Schumacher Collegeでは世界/宇宙に生起する

様々な出来事に向き合うための新しい学問的な

枠組みを創りだす取り組みをしてます。

基本的な思想は Ernst Friedrich Schumacher の

スモール・イズ・ビューティフルの考え方に根差しています。

ガイア理論の James Lovelock をはじめとする

何人もの科学者もこの取り組みを支援してきています。

2003年に僕は英国デボンにあるキャンパスを訪ね、

その素晴らしい活動に感銘しました。

(Devon はTransition Town 発祥の地でもありますね。)

ここ最近の世界のトレンドを見る限り、

彼らの取組がようやく陽の目を見る時代が

近づいてきているように感じられてなりません。

六角堂にて

昨日、ぜんそくを診てもらっている

漢方のお医者さん@京都に行ってきました。

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痛風も併せて診てもらったんですが、

気の流れが滞っているということで

生まれて初めて鍼灸をうけることに。

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足~腰~首などにプスリ、プスリ、

ふと気づけば腫れもすーっと引いていきます。

帰りの道中では腰のあたりがぽかぽか暖かくなって、

自然とすっと背筋が伸びるようになっていました。

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で、朝起きてみたらここ数日のあいだ、

ひたすら悩まされてきた全身のだるさが抜け、

気分すっきり、久々にやる気がぐんとUPしました。

おかげさまで気持ちもめっちゃポジティブに。

東洋医学の威力を思い知った出来事でした。

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診察の合間には医院近くの【六角堂】にお参り。

叡山を下りた親鸞上人がここに百日間参籠し

専修念仏に帰依したという因縁の地。

こころを空しくして、他力本願に専心できるよう、

ただそのことを念じてきました。

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***** ***** *****
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自らの能力や心身を鍛え続け、守り抜く、

そんな自力救済の思想にも一理はありますが、

ひとりひとりが全体ネットワークに

強く接続された現代にあっては

「個」「身内のこと」に執着しすぎると

全体の破たんを引き起こします(合成の誤謬)。

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人間関係に限定せず、地球の<いのち>全体の

ネットワーク(生態系)として考えれば、

より明白なのではないでしょうか(環境問題)。

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<いのち>とは何なのだろうか?

それはどこへ向かおうとしているのだろうか?

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不透明で見通しがつかない時代だからこそ、

そんなことが問われる場面が多い気がします。

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細胞たちが共創するネットワークとして

「私」という意識が存在するように、

幾多の<いのち>の統合体であり、居場所である、

組織や村、国、生態系、地球といった、

有機体そのものにも<いのち>が宿り、

それ自身が「生きていく」意志を持っています。

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ホログラムのように描き出される、

幾重にも重なる<いのち>の層のなかで、

個々の存在はしのぎを削って生きようとします。

そんな世界のなかに置かれた、

細胞でもあり、また、統合体でもある、

私たちの存在のかたち。

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自分を超えた、一つ上の階層の<いのち>は

私たちにとって「神」として機能します。

その「神」の意志は、細胞である私たちには

はかり知ることができないものです。

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私が私の細胞たち(身体)を粗雑に扱うとき、

細胞たちは自分に何が起こったかと思うでしょう。

私のことを呪っているかもしれません。

でも私自身、もっと大きな系の一つの細胞として、

絶えず翻弄されながら、必死で生きているのです。

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細胞たち(身体)が私に存在を委ねることで

私という<いのち>が生かされています。

一方的な関係ではなく、互いに依存しあう関係として。

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遺伝子工学が明らかにしたように

細胞一つ一つはクローンとして個体をつくる

十分な情報とポテンシャルを持っています。

にもかかわらず、彼らは「私」を構成する

ひとつひとつの機能を担い続けてくれる。

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個が全であり、全は個である(梵我一如)。

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そんな言葉が浮かんできます。

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では私は?

私と社会、私と自然との関わりはどんなだろう?

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何が良いとか、悪いとか、

簡単に決めることなんてできませんね。

今はただ、<いのち>の活き(はたらき)に身を委ね、

己を愉しんで生きていくしかないかな、と。

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周囲のことにビクビクしても仕方ないですもんね。

「不安」は満たされないこころがつくるもの。

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大丈夫。

孤立してるわけじゃない。

腹の底から愉しく生きていれば、

内なる<いのち>、外なる<いのち>

どちらからの微細な信号も

感受できるようになっていくのでしょうね。

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手放す。

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手放す。

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手放す

9月に入ってすぐ、痛風の発作を起こしました。

初めて経験する激しい痛みで、歩くこともままならないんです。

3日程度経つと痛みは去って、ようやく普通の生活に…

と思ったらまた朝が来たら別のところが痛み出します。

4日おきほどで、3回の連続発作。

間歇的な発作を繰り返す中で、エネルギーが削がれ、

ちょっと大げさかもしれませんが、

落とし穴に落ちて、山積する日々の問題に埋もれきって、

生きていく気力を失うような感覚に襲われました。

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しばらくお付き合いしてきた喘息の発作の場合は、

息が苦しくなってくると、頭がぼんやりして

感覚がマヒしていくようなところがあるのですが、

途切れぬ痛みのなか、思うように身動きできない状態って

案外自分の深いところを攻撃してくるものですね。

幾度か発作を経験するうちに、徐々に慣れてきましたが、

この間、随分いろいろなことを考えました。

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最初の激痛のとき、聖書のヨブ記を貪るように読みました。

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こんな風に苦しむのはいったい何故なんだろう?

自分なりに真剣に手を抜かず、正しくあれるよう、

必死に物事に向き合って生きてきたつもりだけど、

そのこと自体、神の業を認めぬ不遜な行いだったろうか?

身の程もわきまえず、偉そうに裁いてきたことへの罰?

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こんな目に遭うのは悪いことをしてきたからに違いない、

聖書では3人の友人たちがヨブを責め立てる。

神に誠実にあり続けたつもりなのに何でこんな目に…

富も家族も健康も一切を失ったことを呪い、死を希うヨブ。

神さまの正義はどうなってるんだ?

何かちょっと間違ってるんじゃないの?

下々まで目が届いてないんじゃないの?

と苦しみの中で、不満を神にぶつけ、問い続けます。

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聖書では最後に神がヨブの前に現れて、

「何偉そうに言うとんねん、お前は神か?

頭が高い、生意気なこと言わんと、平伏せよ!」

となって、ヨブはハハーッてなるんですよ。

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僕の場合も、色々と雨風に打たれるなかで

ともすればつい、生きる力を失っちゃって、

神を呪いたくなる気持ちになっていたのだと思います。

今もまだ、完全にそれを抜け出られていないのでしょうし。

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自己防衛のためか、体全体が発熱して

38.5℃の熱にうなされる日々も重ねながら、

あーあ、やんなっちゃう、って思いましたね。

負けない、乗り越えてやる、復讐してやる、

もうそんな気力は沸いてこないな、自分には。

かつて自分が頼りにしていた不屈っぽい根性を思うと、

今となれば、だらしない、怠け者になりきってしまいました。

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でもね、

<いのち>は残されているんだ。

だからそこに頼るしかない。
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同時に読み進めた「アップデートする仏教」

からもいくつかのヒントを得られたように思います。

曹洞宗の坊さんたちが海外で修行をし

「マインドフルネス」の世界に触れながら、

現代における仏教の在り方について対談したもの。

現代を生きる人の心を救済するための「仏教3.0」。

生老病死のなかで執着し続ける意識を捨て切るとき、

自分のなかに青空が広がって、それと一体化する。

それこそが<いのち>とつながった自然体の自分になると

いうことなのでしょう。

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世界のためによい仕事をしたい。

そのためにもシャープに研ぎ澄まされた自分でいたい。

きちんとした集中状態=「フロー」の状態で

常に仕事をできるようになりたい。

自分ができなきゃ、人にそれを指示することだってできない。

経営者たるもの、まずは自分の心を空しくすること。

そんなことが「ことば」としては入ってくる。

あとは、自分が自分の心身のバランスを保って、

日々を丁寧に生きていけるかどうか、なのでしょう。

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3度目の痛風の発作がようやく収まってきた。

留まることなく流れゆく思考のなかで

ふと自分という現象の全体像を見渡そうと、

過去の自分の雑記を読み返していたら、

わりとタイムリーな内容を見つけた。

13年前の自分に檄を飛ばされる。

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手放すこと。自由になること。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【不安との対峙】(2003年11月11日「日々の雑感」より)

http://murayama-farm.sakura.ne.jp/old-kunis/zakkan/03_11.html#0311111

ときおり不安に呑みこまれて動けなくなることがある。
いつの間にか忍び込んだ小さな種が、
やがて自分のあらゆる場所に絡みつく蔦となり、
思考の、そして身体の自由を奪ってしまう。
そんなことがある。

明日の授業が上手くいかないかもしれない不安。
仕事が見つからず、貯蓄が尽きてしまうかもしれない不安。
このまま自分が何も産み出すことなく死んでいくのではないかという不安。
人からバカにされ、嫌われ、あるいは無視されることへの不安。
体が蝕まれやがて自由がきかなくなることへの不安。

不安は様々な要因からなる混合体だ。
それは無意識のまま僕の内をふらふらと浮遊する。

だが、何かのきっかけでふと気付くことがある。
そうした不安を一つ掴まえ、きっちり分析してみると、
案外大したことではなかったり(→強迫神経症的)、
今考えても仕方ないこと(→目の前の問題からの逃避)だったりするのだ。
アウシュビッツにでも放り込まれていないかぎり(実はそれでさえも!)、
その不安を少しずつ除去していく道は必ずある。

全てが思い通りになることなどありはしない。
一個の人間にとって世界はどこまでも不条理だ。
だからといって何だというのだろう?
それはただ「現実」でしかないじゃないか。
僕らはその「現実」と格闘する方法を身につけなくてはならない。
ひたすら「現実」を見据え、自分が取る行動を決めよう。
絶対的な解などどこにもありはしない。
面倒なことに、僕らはいつだって自由だ。

不安は欲望の裏返し。
僕はそういう風に考えている。
何か得たいものがあり、それが遮られているからこそ、
身体(無意識を含む)はストレスを感じている。
それはとても重要な認識だ。
そこから不安を乗り越えていくための方法論が導かれるから。
忘却を信じてただ嵐に耐えるのではなく。

不安の責任を外部の対象に帰さないこと。
本質的な原因は何かを「求めている」自分にある。
自分が本当は何を求めていて、それが何に遮られているのか。
もしもそれが解ったなら、
求めるものに一歩でも近づくために出来ることをリストアップし、
最も効率の良い道と思う道を選べばよいだけだ。
決めたらすぐに動き出すこと。
動かなきゃ何も始まらないし不安は消えない。
不安に怯え、それに食い尽くされないように逃げ回るのは、
むしろ不安にせっせと栄養を与えているだけだ。

他人と比較して自分がどうかなどと考えることは無意味だ。
自分の中にある醜い欲望を恐れても仕方が無い。
それも「現実」なのだから。
タブーを無くす。一番素直な自分になる。
裸の自分と向き合うことがスタート地点だ。
意識と無意識の対話。
それができて初めて、意識は矛盾しあう欲望の調整装置として機能する。

「自分と向き合う」っていうのをなめちゃいけない。
自分のことを完全に解ることなどありえない。
「わかっている」と思えば思うほど、
思考は無意識化し、不安は制御不能の領域へと拡散していくものだ。
時には他人の方がよっぽどわかってることもある。
顔つきや目つき、行動が隠されたものをも曝け出すから。
実際のところ、僕らはいつもストリップして生きてるようなものだ。
裸の王様。

不安が身体性と密接に結びついているという認識も大事だ。
風邪をひいたときなど、訳も無く様々な不安が強まる。
逆にストレッチ一つで不安が静かに鎮まっていき、
前向きに物事に向かえることだって多い。
身体(無意識)の声にきちんと耳を傾けること。

ところで人に対する苛立ちや同情や心配が固着化されるのは、
それが自分の不安の投影となっているときだ。
心が満たされぬときほど人のことに思考が行く。
対象に寄りかかる事によって自分の不安と向き合わないで済むからだ。
己の不安に対処できない者に、人のことなどどうにかできるはずもないのに。
外観と異なり、これは実はとてもナルシスティックな欲望と関係している。
敵や被保護者を通じて、自分の存在意義や優位性を確認するのだ。
無意識のうちに隠微に味わわれる感情。
そんなものがあることに気づいたらさっさと投げ捨てよう。

不安の構造の把握は一筋縄にはいかない。
一つの不安は他の不安を育て、互いに複雑に絡み合う。
そうしてそれは無意識の中に埋没していることがほとんどだ。
根本に抱える欲望は簡単には見出せない。
自分の欲望そのものの在り処が解り難い時代になっている。

キレイにお膳立てされた枠の中に納まっているかぎり、
自分の行動を選択肢の中から選んでいるかぎり、
全てが説明可能だという風におもっているかぎり、
金が本当に何かを解決してくれるとおもっているかぎり、
自分が満たされることはない。

それにしても自分の抱える不安を切開するとき、
「社会」からの乖離を恐れる感情の意外な強さに驚かされる。
それは多くの場合「べき」「ねばならない」「してはならない」等という、
強制・禁忌のコトバとして表現されてくる。
一見意識的にも見えるが、根本にあるのは恐怖の感情である。
この恐怖が結果として意識の専制を招き、自分の衝動は抑圧される。

そう、そのせめぎ合いが不安となってぼんやりと浮かび上がってくるのだ。
生まれた時から社会の中で育てられている以上、コトバを話す人である以上、
どう足掻いても僕らが社会から完全に自由で居られることはあり得ない。
様々な社会規範(タブー)が僕らの無意識の深いところに根を張っている。

だが、果たしてこうした乖離への恐怖は「現実的」だろうか?
子供のときのように無力の状態ならば、
或いはファシズムの圧政下に置かれているならば、
確かにタブーを犯すことは直接死を意味するかもしれない。
しかし今のこの豊かな日本にあって、一体何を恐れるというのか?
飢えが人を殺すのではない。
飢えへの恐怖が人を殺し、また殺させるのだ。
僕らがまず振り払わなきゃいけないのはこの無意識の「恐怖」ではないか?

自分の恐怖と対話してみる。
周りをびっしりと覆ったものを削ぎ落としながら。
するとその恐怖の核は案外他愛も無いものである場合が多い。
そいつだけなら、今の僕なら何とかなるはず、というものばかりだ。

恐怖の核にまとわりついているもの、
それは時によって刻みつけられた何者か。
「どうせ自分じゃ駄目だ」という敗北主義。

煎じ詰めるとそれは「面倒くさい」ということなのではないか?
闘うこと、体を動かすこと、突き詰めた思考をすること、
何を面倒くさいと思っているかは時によるけれど。
怠け心は諦めと連携していく。

タブーは文化であるとも言えるし、
実際のところそれは自分のアイデンティティを支えてくれるものだ。
それを破壊してまで生き抜いていく「自信」などなかなか持てやしない。
寄って立つものを自分で創りだすのはキツイ作業だ。
それでも「面倒くさい」に負けることは、
生命力低下のしるしなのではないか?

二つの道がある。どちらも楽な道ではない。

① 茨の道
自分が求めるものを得るために、闘い続け、
廃墟の上に砂の城かもわからないものを築くのか。

② 共同体と心中
共同幻想に抱かれ、タブーを守り、
無意識のうちに不安と恐怖を押し込むのか。

僕の中ではとっくに答えは出ているはずだ。
今更戻る場所は無い。
醒めた意識とともに進め。
生はもともとダイナミックなものなのだから。
全てを抱こうとせず、ただ目の前の「現実」と向き合って生きよ。
生を生きよう。

不安との対峙は続く。
でもここには光が射している。
求めよ、さらば与えられん。

 

「病みゆくシステム」との戦い

diamond.jp

 

 

今、僕らが向き合うべき最重要事項は何か?

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都合よいように装飾された仮想現実に埋没し、

山積された大小様々な問題を前にしても

見て見ぬ振りをする、そんな症状が蔓延。

.

辛い現実を拒絶するためには何だってする。

自分の存在を肯定してくれる、

大丈夫、と言ってくれる、

痛みを感じさせないでいてくれる、

そんな人や出来事だけに反応するようになる。

何も起こっていない、大丈夫、大丈夫。

私はよい人間だ。間違っていない。

さて。

幾多の絶望を通り抜けてなお、

不定形な現実をひとつひとつ見据え、

迫り来る日々の出来事と格闘し、

いのちを全うしていく。

そんな「生きる力」を一人一人が得るために、

今、僕たちにできることは何だろうか。

学びはつづく。

.

-----------(追記)

.

情報が増えすぎてしまい、

世界の全体像(マンダラ)をとらえることが、

とてつもなく難しくなっているのが今の時代。

.
理解することをあきらめるのか、

理解の仕方を変えていくのか、

その選択が迫られているのだと思う。

.
いや、理解することを徹底的にあきらめたとき、

そこに別の理解の仕方が現れる、

という言い方がより正確なのかもしれない。

.
これは結局のところ、

仏教の言う「悟り」に限りなく近い。

.
とはいえ、

今の日本の社会の常識を信じていればいるほど、

学校教育を真に受けていればいるほど、

「悟り」から遠くなるのは間違いない。

.
世界が自分から果てしなく遠い、

冷たい、手ごたえの無い、のっぺりしたものなのか?

.

それとも自分と世界は、連動して動く、

一体の存在として感じられるのか?

.
どちらか一方を選んでもダメなのかもしれない。

どちらをも感じ取れることができるかどうか。

.
私が私であることと、

私が世界のパーツであることと。

.
手放すこと。

手放すこと。

.
あとは、一歩一歩を歩き続けるのみ。

.
世界は引き裂かれながらも、

着実に動いている。

そのことを感じられるかどうか。

.

以下、シェア先引用

東芝や三菱自動車の問題は、どれほど社員の
「責任感」や「倫理観」を厳しく問うても、解決しない。
不正を行っても、利益を出すことが評価される
「企業システム」になっているかぎり、
どれほど社員に「責任感」や「倫理観」を問うても、
同じ問題が起こる。

そして、その背景には、
「グローバル資本主義」のシステムがある。
経営者の役割は、利益を最大化することであるという
「利益至上資本主義システム」が厳然と存在するかぎり、
問題の根は深く、存在し続ける。

「税金の無駄使い」の問題も、同様。
テーマが何であろうと、それが本当に
国民の利益になるか否かを問わず、
多額の予算を獲得し、それを使うことが評価される
「行政機構システム」があるかぎり、
どれほど官僚に「税金の無駄使いをしない」
という精神訓をしても、問題は解決しない。

では、この問題を、どう解決すれば良いのか?

それを、限られた紙数で語ることはできないが、
問題解決に向けて、一つ、理解しておくべきことがある。

それは、何か?

21世紀の変革の戦いは、
「病みゆくシステム」との戦いになる。

そのことである。

そして、「複雑系」(Complex System)
という思想が重要な意味を持つのは、
まさに、この点においてである。

21世紀、グローバリゼーションや
情報革命を通じて、企業や市場や社会は、
その複雑性を高め、高度な「複雑系」になっていく。

では、そのとき、何が起こるのか?

端的に言おう。

企業や市場や社会は、
「生命的システム」としての性質を強めていく。

すなわち、企業や市場や社会が高度な「複雑系」になると、
自己組織化、創発、進化、生態系の形成、
バタフライ効果など、「生命的システム」
としての特徴を強めていく。

では、その結果、何が起こるのか?

その「生命的システム」が、あたかも「意志」を
持っているかのように、自己運動をし始める。

すなわち、ある状況においては、
企業は、「収益の最大化」をめざして
自己運動をする「意志を持ったシステム」になり、
行政機構は、「税金の増大と予算の消費」をめざして
自己運動をする「意志を持ったシステム」になっていく。

そして、その「生命的システム」は、
その自己運動を阻害する者を、
自然に、そして、強力に排除していく。

かつて、オルダス・ハクスリーが語り、
ジョージ・オーウェルが語ったように、
21世紀の先進諸国における変革の戦いは、
特定の「支配者」や「悪人」
との戦いではなくなっていく。
それは、「支配者」や「悪人」
との戦いであることを超え、
企業や市場や社会の「病みゆくシステム」
との戦いになっていく。

では、その「病みゆくシステム」との戦いには、
どのような「戦略」が求められるのか?

それこそが、21世紀の人類に与えられた
最大の問題の一つであるが、
実は、その「戦略」を見出す叡智は、
「複雑系の思想」の中にある。
そして、不思議なことに、
「生命論」を根源とする「東洋思想」の中にある。

 

伊有協事務局退任のごあいさつ

昨日、伊賀有機農業推進協議会(伊有協)の

定期総会が開催され、3年間に渡って務めた

事務局の任を解いていただくことになりました。

.
伊有協はこの地域の有機農業の推進に取り組む

生産者や消費者、流通、教育、医療、行政など

多様な方面の方が連携することで、

人と人、人と自然の<つながり>に価値の中心を置く、

こころ通うまち「オーガニックタウン伊賀」

を創りあげるための集まりです。

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2010年設立から6年に渡って活動を続け、

視察や勉強会を行って生産技術の向上を狙った他、

地域内の様々なつながり醸成、

オーガニックフェスタの開催、

新たな流通チャンネル開拓(㈱へんこ設立)、

就農者・移住者らのサポートなど、

様々な活動を展開してきました。

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私自身、設立当時は零細個人農家でしたが、

様々なプロジェクトの企画運営に関るようになり、

ここ3年間は生産法人・伊賀ベジが事務局を引き受け、

活動のエネルギーを維持すべく、走り続けました。

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そうして、伊有協で得られた連携のエネルギーを

ビジネスのなかでも生かせるようにするため、

会員らが出資して地域商社 ㈱へんこ を設立。

地域の有機農業者の農産物や圃場の状況を取りまとめ、

小売業者や飲食店、卸売業者らに情報とモノとをつなぐ、

産地の営業・物流機能を担うベンチャーです。

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私自身、この企みの言い出しっぺ~指令塔となって、

右も左もわからないなかで、手探りで進めてきましたが、

地方の農業現場を支えるための流通の仕組みづくりは

想像していた以上にハードで困難なものでした。

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生産との二足の草鞋で経営を進めるのも大変で、

スタートから1年半ほどで体を壊し(喘息悪化)、

自分の手でできると思っていたことの多くができなくなり、

公私に渡って大きな混乱を招くに至ってしまいました。

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以来、長く、そして深い、学びの期間を続けてきたのです。

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トップダウンで力づくに進めるのではなく、

人に託し、委ね、己の「こころ」を伝えることで、

組織という生命体(生態系)の動きを制御する方法とは?

失敗を重ねながら、そんな経営の在り方を模索しています。

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元々あったはずの見通しや自負などは

全てどろどろに溶け、そのどろどろの中から、

ようやく新しい「かたち」がぼんやり見えてきた気がします。

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この感覚は、きっと、今の会社経営にとどまらず、

同じ思いを持つ世界各地の仲間たちと、

来るべき時代を描きながら、世界を豊かにするための

様々なプロジェクトを動かしていくために

どうしても必要な要素のような気がしてなりません。

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伊有協の活動を通じて、数多くのよき人と出会い、

互いを高め合う活動を続けてきたことは、

未来へのヴィジョンを描くための重要な礎となりました。

多様ないのちが鎬を削りながらも寄り添って生きる社会、

そんなイメージを描くための拠り所になったのです。

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未来の影を追って、こうして一歩一歩を歩んだことは、

この地に巣食う、ずらりと揃った個性派たちが、

統合の軸を得ることで、ゆるやかに連携し、

互いに相乗効果を得られたという点で、

十分な役割を果たせたのではないかと思います。

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ただ、私自身、そろそろ次のステージに行くべき時だ、

そんな促しを強く受けているようにも思うのです。

「身体を壊したから事務局を辞めます」というのは

ちょうどよい言い訳にはなりましたが(ゴメンナサイ)、

そこにあまり力点を置くと本質を見失ってしまうかも。

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病はきっと、与えられるべくして与えられたもの。

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生き方、暮らし方、考え方を変えていく。

対症療法ではなく、抜本対策をとろう。

存在の変革。

ゆっくり、ゆっくりではあるけれど、

今、こうして前を向いて歩いています。

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不定形で、混沌とした、

暗闇のなかへ一歩を進めること。

光はそうして闇を切り裂いた先にしかない。

問答無用。ルールはつくるもの。

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がちがちに固まった、安定な世界に住み、

力に頼り、力を振り回し続ける、

そんな老害たちとお付き合いするのはもう沢山。

だって、つまらない、つまらない。

もう、若いエネルギーに賭けりゃいいじゃないか。

私自身、もうさっさと後継に道を譲りたいんだから。

年寄を道連れに、ぶっ飛ぶことが僕らの世代の仕事か!?

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おっさん、おっさん、さっさとそこどきな。

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いやはや、いつのまにか、事務局なんて仕事は、

もう性に合わなくなってしまったんだろうな。

皆に平等に、フェアに対応するなんていう、

お役所的なことが、今の私にできるはずもなし。

そんなことをすればただ苦しくなるばかりで。

お役所の人たち、お疲れさま。そして、ご愁傷さま。

でもそれって自分で選んでるんやもんね。

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今はただ、

正直に、正直に生きたい。

好きなものは好き。嫌いなものは嫌い。

それでいいじゃないか。

嘘で塗り固めた生き物が近づいてくると

しんどくなってしょーがない。

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あーあ、言っちゃった。

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いや、ね、これからまだまだ大変なんですよ。

でも、本気の仲間たちがいる。だから大丈夫。

今ある足元(ローカル)をしっかり固めて。

これからのフィールドは世界にあるよ。

きっと、ね。

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さぁ、鎖を引きちぎって、

がれきの山など踏み越えて、

前へ、進め。