日々の雑感

忍びの里、伊賀の地より。オーガニックとは? 「本物」はどこに?

ことのまま

先週は仕事とプライベートを兼ねて東へ小旅行。

内容が盛り沢山なうえに一つ一つが濃かったこともあり、

なんというか、それなりの人生棚卸の機会になりました。

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旅の私的メモなど。

農・食関連ベンチャーの集まりに「東京」を感じる。
熱気に乗り切れず、自己主張の空気を受け止めきれず。
ともあれ、良き出会いもあり。己はただ事を為すのみ。

各地から数多くの生産者が集まったアグリフードエキスポ。
国内の農と食の生産現場の空気感をさらっと確認。
滅びるものは滅び、残るものは残る。変化は少しずつか。
自身の磁針をどこに向けるか。緩やかにポールシフト。

実家で家族や友人と顔を合わせ、それぞれの在り様を確認。
脈々と手渡される情念の群れに想いを致しながら。
「生きていく」ということはなかなか味わい深いもので。
言葉を必死で手繰りながら、そこに捕まることなく、
まっすぐ生命の現実を見ていられればよいのだけど。

帰りがけ、大井川を遡上して山深く、森や渓流を訪ね、
久々に手放しで自然に触れながら、一瞬、瞑想の機会を得る。
森の中で山蛭に襲われて、ふと「高野聖」の世界を想う。
何だか却って宿業を前にして物狂おしくなってみたり。

オーガニックキャンプ。ヒッピー的な存在様式、
大きなものと繋がろうとするひとびとの営みに触れる。
地球やら、宇宙やら、「交信」するのもよいけれど、
僕は僕でしかない。どこで「手放す」かが味噌なのかな。
未来は可能性のなかにしかない。
くどくど言わず、ゆだねる、任せる、受け止める。

道すがらgoogle様に従うも、橋が工事中やらなんやら、
混乱した頭で道に迷っているうち、
【事任神社】に行きあたった。
呼ばれるままに、せっかくなので参詣。
「ことのまま」
諸行無常を静かに受け止めていけ、ということか。

.

求めない

.

一期一会

.

日々を丁寧に生きていけたらいいな、と改めて思う。

慌てふためき、乱れ続けるこころを御しながら、

「いのち」の時を慈しむことを忘れず、

今、今、を歩いて行きたいなぁ。

--

明日から数日、諸々、区切りのタイミングの様。

大きな変化のとき、

まっすぐに、しなやかに、

生き抜くことができますように。

事任神社:http://www.geocities.jp/kotonomachihime/

Facebook: https://www.facebook.com/%E4%BA%8B%E4%BB%BB%E5%85%AB%E5%B9…/

 

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お金の起源は『記帳』にある


********** 引用 ************** 

「お金の起源は『記帳』にある」

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今世紀の生き方の指針として、

マーケット(金)で解決しないこと、

価値と信用の創造力を身につけること

の2点が挙げられる。

*********** 引用終 ***********

 

 

変わりゆく世界のなか、僕らの今の営みが、

歴史の大きな流れのどこに置かれているのか、

できるだけ自覚的でいたいと思う。

なかでも、「お金」がどうなっていくのかを

理解することはとても重要だ。

社会に参画し、ビジネスを回している以上、

根底にある、どうしても避けて通れないテーマだ。

.

蓄積されれば大きな「力」として機能する「お金」。

でも、もとを辿ればそれは人々の持ち寄りや与え合いを

記録(LOG)するための仕組(記帳方法)にすぎない。

人びとが織り成す関係の歴史を記録する媒体であり、

創造性ある人たちによって産み出された

「価値」や「信用」を流通(共有)するためのツール。

.

ストックして安心を得るための備えにするのでなく、

どこまでもフローとして、機能として捉えていくこと。

淡々と価値や信用の創造力を磨き続け、

そのことをお金の収集と蓄積とは切り離して考える。

つまり、マーケットから距離を置くこと。

.

お金を「力」として用いないこと。

絶えずツールとして用いること。

 

以下 引用先全文

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山口揚平フォローする

先ほど、ウォールストリートジャーナルの購読を止めた。月額3000円は質の高い経済情報の対価として妥当だった。だけど僕には世界を動かしているパラダイムが変わったように思えるし、そうなると記事のテーマにも違和感を感じるようになった。

今、お金がいったん本来の姿に戻ろうとしている。お金の起源は「記帳」にある。人々は昔、それぞれの持っているものを提供しあっていた。ちまたで言われているようなリアルタイムの物々交換は実は存在しなかった。それは不便すぎたからだ。そうではなく、あげたもの、もらったものを互いに記帳していったのだ。記帳からくさび形の文字が生まれた。お金が先で文字があとで発明された。中世ヨーロッパでは年に一度、リヨンの大市で取引の精算が行われた。複式簿記が広がった。会計に優れた商人が権力を持つようになった。

やがて王の持つ権威と、商人の権力が協力する形で中央銀行ができた。最初の中央銀行はイングランド銀行だった。英国王は戦争で国庫が窮乏していたし、国際商人達は自分達の私的取引による商規模拡大に限界を感じていた。両者の思惑が合って、国家がお金を作って市中に流すようになった。いまでもその中央銀行がお金を作り、コントロールしている。もちろん裏でコントロールしているのは商人である。これは400年間変わっていない。陰謀論に興味は僕はない。ただたいていの中央銀行の株主は民間(商人)と国家が半分ずつというのは事実である。(「21世紀の貨幣」フレデリック・マーチン)

さて、今起こっているのは中央銀行が終わろうとしていることだ。この国でももう日銀は円を刷りすぎたし、米国でも中国でもそうだ。何かを創り出すよりもお金を刷ることで為政者が机上で経済をまわすのは無理だ。やがて中央銀行通貨の価値はなくなる。新しいビットコインの本質は通貨でなく、記帳の履歴を完璧に暗号化することだ。本質的意義はよくいわれるような仮想通貨(Bitcoin)ではなくブロックチェーンの新しい記録装置(bitcoin)である。

さて、ウォールストリートジャーナルはFRBを中心に中央銀行の金融政策の情報の質と量が圧倒的なメディアである。だが経済は今は別のところで回りつつあると僕は感じる。それは個人の信用と互いの取引である。僕はこのメディアの前提となる中央集権的な経済システムの考え方に違和感を感じている

お金は大事だ。しかしそのお金の本質を知り、お金の源泉を得ることの方が大事だ。

お金は持ち寄りとその与え合いの記帳からはじまった。それぞれが産み出した価値を提供し、記録することがその源泉である。やがてその価値創造と貢献の記録は貯まって信用となる。その信用が貨幣という形で世の中に出回る。それがお金のしくみだ。貨幣自身には価値はない。その元にある信用が貨幣というメディアの価値を担保する。「譲渡可能な信用」それこそがお金の定義である。信用なき貨幣に価値はない。国家はもはや凋落している。残るのは徴税権と交戦権だけだ。それを行使することを匂わせるしかない。昨今の右傾化も増税も背景は単純だ。

ひるがえって個人は各々の信用を世界に創り出すことができる時代となった。かつては1つの村や島でしか信用は流通できなかった。今は違う。世界のどこでもその信用は流通しうる。
個人に必要なのはお金(中央銀行通貨)を得る力でなく、価値と信用の創造力だ。

お金とはまず価値を作り、マーケットに行ってそれを換金することで得るものだ。だが今はマーケットに行かない。むしろ個人間の信用取引で価値を流通できる。家を借りるために不動産屋に行き、車を手に入れるためにカーディーラーに行き、家具を買うために大塚家具に行くのは今世紀の生き方ではない。家も車も家具も近くの私的ネットワークで手に入れることができる。空室率は25パーセント、車は5700万台ありこの数字は10年前と変わっていない。つまりモノは世にありあまっている。わざわざマーケットまで行き、お金を作って手に入れる必要がなくなっている。個人間取引のメルカリアプリで80万のベッドも100万の新古車も、知識を持ち丁寧で誠実であれば10万円で手に入る。大切なのは個人間の信用である。マーケットであえて買う必要があるのはAmazonの生活必需品と交通機関だろう。今や個人はその知識と信用を駆使して、中央銀行通貨を介さずに互いに安価に価値を交換する度合いが急激に増えているのだ。それを知らない人ほどお金を求めるがそれは旧時代のパラダイムだ。縁は円より強し。これは標語ではない。事実だ。

今世紀の生き方の指針として、マーケット(金)で解決しないこと、価値と信用の創造力を身につけることの2点が挙げられる。マーケットで解決しないとは私的ネットワークとその信用残高で価値交換する姿勢、創造力とは既存の物事の新しい組み合わせのことだ。その知識と実践こそが今世紀のすべての人に求められているのだ。

本質的な課題に向き合うのか、コミュニティの維持を求めるのか

何かこういうの見るたびにげんなりするなぁ(+_+)。
 
貧乏人を助けてあげようという名目のもとに、
理不尽に薄々(あるいははっきりと)気づきながら
ばらまかれる金にたかる餓鬼のような人の群れ。
 
ビジネスの世界では、相手を依存させることが
よい商売になるというパターンがすごく多いわけで。
麻薬売るのとか、まさにそうだもんな。一番儲かる。
 
でもその先に何があるの??? 。。。
 
このあたりのテーマって、
もともと自分が農業始めたときから
根底にあった問題意識だけど、
本当に「皆が」幸せになるためには
結局「自立」ということが一番大切なんだと思う。
そして暮らしの基本(衣食住)を 自らつくっていくことこそが
「自立」の第一歩だと思ってきたのだけど。
 
ま、今時そんなに簡単じゃないかもしれないけど、ね。
 
「つくること」
 
「産み出すこと」
 
「生存」ではなく「生きる」こと。
 
互いが自立するのを助けることこそが
コミュニティの真の役割なのではないのかな???
 
----
 
で、翻って見ると、 日本の農業への補助金だって
構造としたら似たようなもんじゃないだろうか?
 
農業の抱える本質的な課題の解決よりも
農業関係者のコミュニティを持続させるために
緩~い目的意識で、たくさんの金がばらまかれ続けてる。
 
補助金配るルートに乗った役所とか組織とかコンサルとか、
補助金なくなったらやることなくなる人沢山いるもんね。
 
5兆4000億円の売り上げを持つ業界に対して、
真水で4兆3000億の補助金をぶち込まれてる。
加えて農業関連の事務間接部門(役所とか)の
人件費など考えてみると、そりゃ結構なことだわさ。
 
とはいえ、ま、業界全部合わせても
トヨタ27兆に遠く及ばないわけで。
この世界の経営センスのなさがほとばしる感じ。
力もない中間管理職(的な俸禄取り)にじゃぶじゃぶ金使って
それをリストラさえできない構造になっている。
 
いや、みなさん、いいの、これで?
食べるものをつくる仕事って
結構重要だと思うんだけどなぁ。
 
諸々の補助金があるゆえに
経営ヴィジョンもなく、技術も学ばない
そんな農家がゆるーっと生き残って
社会の変革なんかには目もくれず、
目の前のパイにしがみついて、こそこそと奪い合う。
 
餌くれ餌くれ、って待ってる家畜の群れみたい。
 
で、自分のコミュニティの存続に関わるときだけは
必死に声を上げるわけで。
いや、遅いって。
井の中の蛙、どんだけ視野狭いねん。
 
いや、そんな構造に自分たちの食をゆだねるくらいなら、
せめて野菜や米くらいはみんな自分で作っちゃえばいいのに。
え、田畑がない?鍬も持ったことない?
じゃあそういうことができるような仕組つくればいいじゃん。
なんでも甘えて待ってりゃいい、ってもんじゃないし。
 
社会のなかの「暮らし」をみんなで
再構築していけばいいじゃないのかな?
もう、そういう風にしてる人は一杯いるし。
 
あ~あ。 勢い込んで、
ついつい色々書いちゃった・・・。
 
翻ってわが身を見ると、
ま、決してそんな大層なものではないんだけどさ。
ただ、少なくとも、こんなふうにしていたら、
僕らの種族は生き残れないんちゃうか、
という感覚を持ってしまう以上、
そこにふたをしても仕方ないし、
ま、やれること、やれる範囲でやっていくしかないのかな、
と淡々と生きている訳だから。
あ、「淡々」のわりには忙しいけどw。
 
さ、余計なこと言ってないで、
積み上げた仕事片づけよ~。
 
生きるぞ。
 
今日も暑いですなぁ。
 
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追記
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つい書きなぐっちゃったので
読み返して少し反省したりして・・・。

補助金を受け取っている誰か特定の人を
批判したくて書いたわけじゃないです。

なんというか、こういう構造的な社会問題に触れると、
大したこともできないまま、右往左往を続ける
自分自身に対するいら立ちもあって、
ついついキツイ言い方になっちゃうんですよね。

最近は「力」に屈する、という感じが
以前にもまして嫌で嫌で仕方ないのです。

どうだオラオラ、って来る人たち。

こう決まっているんだから、こっちが常識なんだから、
受け入れろ、って来る人たち。

「空気」読めって、押し付けてくる人。

流れがスムーズにいかなかったり、
和が乱れたりするとすぐ怒りだす人。

僕は今、自分の気持や意志に反して、
押し付けられてくるものがとにかく嫌。
きれいごととか何とかじゃなくて
感覚的にもうホント嫌。
それっぽいにおいのするものに、
ものすごく反応してしまう。

「力」を用いて人を無理やり従わせるのであれば、
それは「レイプ」に等しい。
人は慣れればそういう事態も平然と受け入れるように
なってしまうのは知っているけれど、
やっぱ嫌だ。

自らが「力」に屈したことを許せず、その復讐のために
結局は「力」に頼ってしまう、それが人の弱さというもの。

できることなら「力」を行使する側にも、される側にも
立っていたくないのよ、本当は。

でも、なかなかそうはいかないのでね。

お金でも、国家でも、権威でも、
村や組織でも、世論でも、
別にいいじゃんそんなもの、
ってさらっと受け入れてしまえば
そりゃ大したことないのでしょうよ。
その護りの下で生きていくことができるあいだは。

多数派は抑圧された少数派の存在に気付かない。
何もなかったのように踏みつぶしていくものです。

強いもののほうへ、強いもののほうへ。
弱きものの存在は不可視化される。

流れのなかで自分が踏みつぶされる側になると、
積極的に抵抗するのはしんどいから、
せいぜい、受動的に、だらだら受け流すことで抵抗する。
その場、その場をごまかせればいいじゃない?
そのうち長いものに流されていくんだ。

きっとほとんどの人が、どこかで、己の弱さ故に、
自分を押しつぶしてくるその「力」に屈し、
長いものに巻かれたことはあるだろう。

だが、長いものに巻かれた人は、
必ずや、「力」を行使する側になるよ。

やがて「常識」を武器にして
それを無意識のうちに振りかざして支配しようとするよ。

「ふつう~」

あ~この言葉、大っ嫌い。

それにしても、いつでも多数派、
なんて人はいるのかしらね?

世界はそこらじゅう罠だらけだし。

「力」なんていうものは、
「力」に屈した人たちが互いに支え合う、
無常な幻想のようなものなのに、ね。

お金も、食べ物も、名誉も、何もかにも、
結局自分が本当に幸せになるために
欲するものなんじゃないの?
所詮手段でしょ?

じゃあ幸せはどこにある?

ニコニコ笑っているのが一番。平凡が一番。
それホント?
笑って飲み込めばいい?
踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損、損?

誰にでも適用できる真理なんてないのだろう。

僕にはよくわからないな。もう。

僕はただ、どこまでも正直になって、
心の奥底にちゃんと向き合って、
「からーん」ってなるくらい、
そんな気持ちで生きていたい。
そんな気持ちで人と付き合っていたい。

ビジネスだって、政治だって、宗教だって、
自分も人も、皆で幸せになろうというのであれば
結局のところ、それが一番の早道なのでは?

そんな気がしています。

讃められるために生きている訳じゃない

ibaya.hatenablog.com


坂爪さんの IBAYA の活動をフォローして以来、
彼の言動には幾度となく励まされてきた。
 
限られた情報ソースのもとでの判断だが、
僕は、これだけ力のある表現を
世に発信し続ける同時代人を他に思いつけない。
 
心の底にある情動を激しく揺さぶるコトバたち。
ある人はそこに救いの感覚を見いだして熱狂を覚え、
ある人は吐き気を催すような嫌悪感を抱くだろう。
また、ある人はその力ゆえに、
彼の存在を徹底的に無視しようとするだろう。
 
恐ろしい才能というべきか。
「とにかくやばいことだけをやる」
「ヤバイ」をひっくりかえす ⇒「イバヤ」
 
僕にとって最初、彼は遠くの雷鳴のような、
あるいは画面の向こうの憧れ的な存在だったけど、
この2年ほど、僕自身が諸々の困難にぶつかり続け、
己の殻を粉々になるまで粉砕される過程の中で、
いつのまにか、盟友のように感じられるようになってきた。
まぁ、それはこちらの勝手な想いではあるけれど。
 
-------------
 
僕は未知なことだらけの農業の世界に飛び込んで、
もがきながら匍匐前進して進むうちに、
気付けば地域の有機生産者のとりまとめ的な役割を担い、
公金を用いた事業のかじ取りを引き受けるようになった。
 
また農場を「社会化」するため、法人化することで、
コンプライアンス、世間の目といったものが
嫌というほど心の内にまで浸透してくるようになった。
 
さらには農業の置かれた社会構造について考えるなかで、
是非とも必要になると思われる機能を実現しようとして
流通の事業にまで手を染めるようになっていくうちに、
僕はもはや、「社会の奴隷」とでもいう境遇から
逃れられないようになっていったのだ。
 
経営者なんて、「倫理」に縛られた奴隷みたいなもん。
でもそんな状況は決して永続できるもんじゃない。
 
そうして破綻はやってきた。
 
身体を壊し、家族を失い、
厳しい経営状況に追い込まれたまま、
片翼飛行のように飛び続ける日々。
それでも僕は「いい顔」をし続ける?
 
それを脱ぎ捨て、本当に自由になるまで、
随分の時を要した。
 
一瞬一瞬が学びのとき。
日々の経営判断の全てが、
己のいのちの経験の積み重ねとなっていく。
 
潜って、潜って、潜って、
深い海底に沈んでいたものを
ゆっくりゆっくりと引き揚げる感じだ。
 
深海から一気に水面にいくと
どんな魚だってバーストしてしまう。
だから、ゆっくり、時間をかけてきた。
きっとそういうことなのだと今は思える。
 
そしてようやく、心の中から思えるようになった。
 
あほらしい。
 
”Who's John Galt?”※
 
※米国の若い知識人のなかで
 聖書の次に読まれてきたという
 Ayn Randの小説”Atlas Shrruged”のセリフが
 頭の中でリフレインする。
 
いや、オレはオレだ。
 
善悪の彼岸へ。
 
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人より多少なりと理解力や処理能力があるがゆえに、
仕事を引き受けることが妥当と考えてそれを引き受ける。
そのことで最初、感謝や尊敬を得たとしても、
やがてそれは「当たり前」になり、
やがては小さなことにもクレームを受けるようになり、
そしてその要求レベルはどんどん上がっていく。
 
日本の社会に根強く存在する、
サービス提供者には甘えることが当たり前、
という心情は本当に恐ろしいもので、
政治家だろうと、
役所の人だろうと、
メーカーだろうと、
責任ある存在になればなるほど、
人(群衆)はそこに無意識に甘え、
いくらでも無茶な要求を突き付けるようになる。
 
【甘え】
 
こういうのって恥ずかしいと思わないのかな、
と僕は感じてきたけど、いや、もう仕方ないんだろう。
今やそれがスタンダードな感情なのだ。
 
それは結局のところ、
親に甘え続ける心情と連続しているのだろう。
教育の問題であり、心の未熟さの問題。
知識と情報を詰め込めばいいだなんて、
何となく選んできた愚かな選択の結果。
ちょっとした一瞬、一瞬に、
ちゃんと心を使って考えることを放棄してきたゆえに、
多くの日本人が親離れできなくなっている、という現実。
 
でも実は、状況は世界中で同じみたい。
 
動物化と幼児化が同時進行していく。
 
一方で、ピケティの描く資本の局在化と並行して、
知識も、倫理も、一極集中は着々と進んでいくばかりだ。
 
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さて、どうしたものか。
 
創る人間と、そのおこぼれにあずかる人間がいる。
どっちが正しいとか間違っているとかじゃない。
ただそういう状況がある、というだけ。
 
この現実を否定したところで何の意味もない。
 
己が己の身を置く場所を決めろ。
 
僕はもう、この馬鹿げたゲームは沢山なんだ。
 
たかる人間を許してもしかたない。
 
これは戦争みたいなもん。
 
だからぽーんと投げ出すよ。
 
でもここで思う。
 
僕らが僕らであることを貫くとき、
未来がつくられていくのだ。
 
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引用元の坂爪氏の言葉のひとつひとつに
僕は共鳴するけれど、
ここでは彼が引用した書籍の言葉を再引用したい。
 
さぁ、こっちだ。
 
僕はこれから全力で
僕自身にしがみついて生きてみようと思う。
 
 
以下、引用中の引用より ー 村に火をつけ、白痴になれ【岩波書店】
私のすべては唯屈従です。
人は私をおとなしいとほめてくれます。
やさしいとほめてくれます。
私がどんなに苦しんでいるかも知らないでね。
私はそれを聞くといやな気持ちです。
ですけど不思議にも私はますますおとなしくならざるを得ません。
やさしくならずにはいられません。
 
私には1日だって、
今日こそ自分の日だと思って、
幸福を感じた日は一日もありません。
私は私のかぶっている殻をいやだいやだと思いながら
それにかじりついて、それにいじめられながら死ぬのです。
私にはいつまでもその殻がつきまといます。
それに身動きがとれないのです。
 
あなたは何にも拘束されない強者として活きてください。
それだけがお願いです。
屈従ということは、本当に自覚ある者のやることじゃありません。
私はあなたの熱情と勇気とに信頼してこのことをお願いします。
忘れないでください。
他人に讃められるということは何にもならないのです。
自分の血を絞り肉をそいでさえいれば人は皆よろこびます。
ほめます。ほめられることが生きがいのあることでない
ということを忘れないでください。
何人でも執着を持ってはいけません。
ただ自身に対してだけは全ての執着を集めて
からみつけてお置きなさい。
私のいうことはそれだけです。
私は、もう何にも考えません。 

 

抑圧された感情の行方

非常に本質的で重要な指摘だと思います。  
 
日本人のメンタル面に深く根差した特性ですね。  
「お上」に表だって逆らうことはせず、  
じっと黙ってうつむいて、恨みや悲しみを  
こころのなかに静かに沈降させていく習性。  
 
この抑圧された感情が、  
闇のなかに置かれるや否や解き放たれ、  
寄り集まり、残酷で陰惨な形で発散されていく。  
そう、弱きものはいつだってその感情のはけ口になってしまう。  
 
そして、この感情の記憶は、  
親から子へ、子から孫へ、  
水面下で静かに伝染し続ける。  
 
「力(国、ムラ、金、知といった権威)」  
による支配、被支配の関係から  
ひとりひとりが解放されていかない限り、  
この国のひとびとは、迫りくる現実を直視せぬまま、  
次々と破滅を呼び込んでしまうのではないか?  
 
今、僕らにできることは、どんな感情をも素直に解放し、  
互いにそれを受け止め合う空気を創り出していくこと。  
いのちのあり方を見つめ、こころをつなぐこと。  
 
「うん。それでいいんだよ。」  
と言って相手を受け入れる感情のスペースを  
僕らはどうやったら産み出していけるだろうか?  
 
「共に食べる」こと。   いのちを育み、いただくこと。  
僕は、そんなシンプルなことこそが  
大きな力を持つのではないか、と思っている。
 

「力」による支配・被支配の関係を脱するために

陰転じて陽と成す。

 

自分を取り巻いてきた諸々のつながりが

堰を切ったように連鎖的に破綻を来たし、

ボロボロと崩落していく様子を

ただ凝視し続けていた日々。

 

そうして、ふと気付けば、

静まりかえった世界のなかに、

ゆっくり、ゆらゆらと、

深いところから浮かび上がってきた

裸の自分の存在を感じている今。

 

大丈夫か?

常識からかけ離れたところで、

ただ自分と、そして世界を見つめて、

じーっと考えつづけて。

その「ものぐるほしさ」が

時折怖くなってきたりはするけれど、

やはり僕は僕を受け止め続けるしかない。

 

だって、僕自身が生きる原動力を失えば、

僕から産み出される事業もくそもありえないのだから。

「生きる」こともちゃんとできていないくせに、

右から左へ、淡々と何事か処理をし続けることに

一体何の意味があるというのだろう?

 

自分のなかの基礎エンジン(=こころ)のモデルチェンジ。

そのタスクに全力を尽くすうちに

徐々に、明確に、理解されてきたこと。

 

それは、僕はもう、「力」によって、

支配したり、支配されたり、

そういうのは沢山だ、と感じていること。

 

「力」とは人と人とのあいだを

行き来する交換媒体の集積のこと。

 

暴力(物理的な力)の集積が国家に。

互酬の集積がコミュニティ(家族・ムラ)に。

言葉の集積が知に。

お金の集積が資本に。

 

(※詳細はこちら⇒ http://murayama-farm.sakura.ne.jp/old-kunis/zakkan/04_01.html#0401161

 

「力」が産み出されるのは避けがたい事実。

人や自然のネットワークのなかを

様々な媒体が流れゆくあいだに、

それが素早く駆け抜けたり、集積したりすることは必然。

いのちとはそうした脈動そのものなのだから。

 

問題になるのは、「力」の使い方だ。

支配し、支配される、その関係を構築するために

「力」を使うことはもうやめないか?

そういう事態を受け入れたり、強制するのは

もはや「老害」と呼ばれるべき感性なのではないか?

 

本当の意味で独り立ちできず(親離れできず)、

何かに依存しなければ生きていけない、

弱きものたちの悲しき悪習を

今はひとつ、ひとつ解放すべきところに

立ち至ってきているのではないかと感じる。

 

自らを否定するもの(カオナシ)は他者を否定する。

でもどうしたって否定しきれない真の己の存在が

魂の奥底から切ない怯えの声を上げるから、

その怯えを「力」によって押し付けるのだ。

 

もう、怯えに支配されたくない!!!

 

怯えるひとは闇のひと。

いつだって、しれっと被害者を演じ、

いつだって、しれっと言い訳をし続けてしまう。

べっとりと相手に「罪」をなすりつけて、

そいつを真に受けてしまう弱みにつけ込んで

その力を奪いとり、利用しようする。

 

そんな輩をもう許さないようにしよう。

 

そりゃ、今はまだ、

「力」による支配構造を基軸にした社会を信じ、

しがみつき、しゃぶりつき、

その延命を図るひとたちがいて

彼らはヒステリックに正義や正当性を叫び続ける。

 

Yeah, You are right.

You are Justice.

But... Who cares.

 

でも、今はただ、

社会や地球生態系といった

僕らを包む大きないのちの集積体が

もっとも豊かな形で実現されるように、

僕らの間を伝わっていく、

様々な媒体の流れを加速し、

さらに自由な表現の展開を

許していくべきではないだろうか?

 

こころの叫びが聞こえる。

 

いかに多くのひとたちが

内なる子供の声を黙殺し、

力に帰依し続けようとしていることか。

 

僕らは今、彼らをも支えていけるよう、

こころ=根っこを、

しっかりと地に張っていくだけだ。

地中に風が吹き抜け、潤いが与えられるように。

 

こころ(=根っこ)の育たない大地に

実り豊かな森が育まれることはない。

 

May Love and Peace Prevail...

 

私に編されないで。

 

私がつくろう顔に編されないで。

 

私は仮面を、
千の仮面を被っているから、
それを外すのは怖くて、 
どれひとつとして私じゃない。

 

うわべを飾るのは、
第二の習性となった技巧、
でも編されないで、 
お願いだから編されないで。

 

あなたに、私は大丈夫という印象を与える、
すべては順調で、私の内も外も静かに落ち着いているという、
自信が私の名前で、クールなのが私のゲームといった、
水面は穏やかで、私は指揮権を握っているといった、
私は誰も必要としないといった。

 

でも私を信じないで。

 

表面は穏やかに見えても、
表面は私の仮面、 つねに変化し、
つねに姿を隠す仮面。

 

その下に安心の字はない。
その下には混乱と恐れと孤独が居座っている。
でも私はそれを隠す。
誰にも知られたくない。

 

私の弱みや恐れがむき出しにされると考えるだけで、
私はうろたえる。 

 

だから私は血迷ったように隠れ蓑を付ける、
何気ないふうな、洗練された見せかけの仮面を、
うわべを飾る手助けをしてくれる、
見抜いているといった眼差しから
私を守ってくれる仮面を。

 

でも、そんな眼差しこそが私の救済。
私の知る唯一の希望。

 

つまり、もしその後に私が受け入れられるのであれぱ、
もしその後に愛があるのであれば。

 

それは、私を私自身から解放してくれる唯一のもの、
私の自分で築き上げた牢獄の壁から、
私があんなにも丹精込めて作った砦から。

 

それこそが、私が自分自身に確証できないものを、
確証してくれる唯一のもの、
私にもじつのところ何らかの価値があるのだと。

 

でも私は、このことをあなたに言わない。
あえて言わない。怖いから。

 

私はあなたの眼差しの後に受け入れが、
その後に愛が伴わないのではと恐れる。

 

あなたが私を劣っていると思うのでは、
あなたが笑うのではと恐れる、
あなたの嘲笑は私を殺すのだから。

 

私は、結局のところ何者でもなく、
ただ駄目な人間であることを恐れる、
あなたがそれに気づいて、
私を拒否することを恐れる。

 

だから私は私のゲームをプレイする、
命がけの、扮装ゲーム、
表に確信のうわべをつくろい、
内なる子どもは震えている。

 

そうしてきらびやかな、
けれど空虚な仮面のパレードが始まる、
私の人生は前線となる。

 

私は無為に、ロあたりのよいうわべだけのおしゃべりをする。
本当のところどうでもいいことは、全部あなたに話す。

 

本当に大切なこと、
私のなかで泣いているものについては、
何ひとつ話さない。

 

だから私が私の決まりきった私を演ずるとき、
私の言っていることに編されないで。

 

どうか注意深く聞いて、私が言っていないことを聞いて、
私が言ってみたいことを、
生き延びるために言わなくちゃならないのに、
私が言えないでいることを聞いて。

 

私は隠れたくない。

 

うわべだけのいんちきゲームはしたくない。

 

そんなゲームはやめてしまいたい。

 

私は本物で、自然で、私でありたい、
でもあなたが助けてくれなくちゃ。 

 

あなたの手を差し伸べてくれなくちゃ、
たとえそれが、私が一番嫌うことのように見えても、
私の目から生ける屍のうつろな凝視を拭えるのは あなただけ。

 

私を生に呼び戻せるのは、あなただけ。

 

あなたが親切で寛容で励ましてくれる時
いつも、 あなたが本当の気遣いから理解しようとしてくれる時
いつも、 私のこころに翼が生え始める、
とっても小さな翼、 とってもかよわい翼、 でもそれは翼
私の感情にふれるあなたのパワーで、
あなたは私に命を吹き込める。

 

あなたにそのことを知って欲しい。

 

あなたが私にとってどんなに大切か、知って欲しい、
あなたは私という人間の創造者、
そう、真面目な話、創造者になりうることを、
もしあなたがそうしたいのならぱ。

 

あなただけが、私がその後ろで震えている壁を取り崩せる、
あなただけが、私の仮面を取り払える、
あなただけが、うろたえと半信半疑の私の影の世界から、
私の孤独な牢獄から、私を解放できる、
もしあなたがそうしたいのならば。

 

どうかそうして。

私をやり過ごさないで。 

あなたにとってやさしいことではないはず。

自分は役立たすとの久しい確信は、強大な壁を築く。 

 

あなたが私に近づくほど私はより盲目的にはね返すかもしれない。 

それは不合理なこと、 だけど本に書かれている人間とは違って、
しばしば私は不合理。

 

私は欲しくてたまらないまさにそのものに対して闘いを挑む。

でも愛は強大な壁よりも強いと人は言う、
そしてそこに私の希望はある。

 

どうかその壁を打ち壊して、 堅固な手で、
でも優しい手で、 子どもはとても敏感だから。

 

私は誰、とあなたはいぶかるかもしれない?
私はあなたがよく知っている人。

私はあなたが出会うあらゆる男だち、
あなたが出会うすべての女たちなのだから。


(内なる子どもを癒す―アダルトチルドレンの発見と回復)
1997/9/25
チャールズ・L. ウィットフィールド、 Whitfield,Charles L.

 

松岡正剛の千夜千冊 | 1610夜「肥満と飢餓」ラジ・パテル を読んで考えたこと。

1610夜『肥満と飢餓』ラジ・パテル|松岡正剛の千夜千冊

を読んでの感想。

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僕らの食を支える社会構造はこれからどうなるか?
世界の趨勢を俯瞰しながら、改めて、
今の僕らが真に必要としているもの・ことを見定め、
皆で知恵を出し合って、暮らしのニーズに応える
こころある社会システムを創っていくしかない。
.
TPP を推し進める背景にある歴史。
GATT、WTOといった枠組を通じてもたらされた
世界の食産業による支配構造があり、
それを維持するための政治手法がある。
かじり聞きの上っ面の知識で闇雲に批判するよりも、
そこにどんな力学が働いているかを丁寧に精緻に理解したい。
.
僕らの日々のいのちは「たべる」によって支えられている。
そしてこの「たべる」という行為そのものが、
いのちの連鎖であることを皆が感得できるならば、
世界の不幸の多くは消えていくのではないか、
最近はそんな風に思っている。
.
社会に生きる一人一人が、いのち(食材)を育み、
運び届け、調理をし、感謝していただく。
かつてはいのちだった「生ゴミ」と呼ばれる存在をも
やはり「いのち」としてきちんと大地に還す。
むろん、この円環を影からそっと支える人達もまた
優しく円環のなかに包まれていくのだ。
.
ひとりひとりが幸せになるために。
「いのち」の円環を創り上げることこそが
これからの時代の「産業」=「いのちを表出するわざ」
となっていくべきではないだろうか?
そうすれば、自ずと今、自分が為すべきことが
見えてくるのではないだろうか?