経済システムの作り方
地域活性化ハンドサイン
自らの頭で考え、自らの足で歩む。
その風土をいかに築いていくか。
それが経営の基本なのだと思います。
抜け道は、ない。
ごまかさない。
ただコツコツと、やるべきことを、やるべし。
共に生き、共に栄えていくために
それぞれ「違う」ことを恐れない。
自立すべき人間を補助し続けることは
彼を支配し、スポイルすることに他ならない。
自戒をこめて。
京大変人講座 続
昨日は久しぶりに母校のキャンパスに足を踏み入れて「変人講座」を受講してきました(^^)
この講座は総合人間学部の酒井 敏先生の発案。
大学が独立行政法人となって自前の「稼ぎ」を求められるなか、近視眼的で無難な研究に落ち着くケースも増えています。
でも、常人には理解できないようなことを考える「変人」をプールしておくことこそ、京大の強みなのだ、と、逆転の発想を打ち出したわけです。
第一回の講座では農学部出身で生物の研究をされている神川助教のお話。想像を越えるような微生物の多様性について、越前屋俵太氏が掛け合いのなかで聞き出していく、という形で進められました。
植物の細胞の中にある様々な器官、呼吸を行うミトコンドリアとか、タンパク合成を行うリボソームとか、あれはもともと別の生き物を取り込んで共生するようになったものだとされます。そうした「進化」がどのように起こってきたかは、遺伝子解析でどんどん明らかになってきています。
どの生き物とどの生き物が親子だとか兄弟だとか、そういう関係図を描いていくと、予想外の繋がりがわかってきたり、圧倒的多数の生き物について実は全然分かっていない、ということが見えてくるのです。
農業の技術の世界で何よりも重要なのは「光合成」ですが、これを支える器官[葉緑体]はストロマトライトという生き物が取り込まれて共生するようになったものとされます。ちなみに、少し前に流行ったミドリムシなんかは自分で動いて餌取れるくせに、光合成機能も身に付けてる。
かと思うと逆のこともあるようで、光さえあればエネルギーを生産して食わせてくれる連中を飼うのはスマートな選択だと思うんですが、餌が豊富にある状況が続くと、もうお前らいらんわ、とポイと捨てちゃうこともあるらしい。光合成辞めました、の植物もいるってことw。
ま、世界にはいろんな奴がいて、それぞれが置かれた環境に適応して集合離散を繰り返しながら、生態系を作り上げているんです。マイナーな奴にも活躍の場(ニッチ)はあるもので、自然界のあまりに多様な適応の形を眺めていれば、ちょっとやそっとの「変人」くらいで驚く必要なんてないな、と思えてくるのですね。
(神川先生のページはこちら↓)
https://sites.google.com/site/ryomakamikawa/
講座の冒頭ではゴリラの研究で有名な山極総長の話も生で聞けて良かった~。
自由を重んじる正統派の京大の空気感があって、さすがのゆとりを感じました。
うん。少し前の状況を思えば京大もずいぶん自信をとりもどしてきたのかな。
会場には学生の姿も多く、こういう空気のなかで思う存分学びを深めていける連中はラッキーだよな~と。これからが楽しみになりました。
沢山の刺激をもらったので、こちらもまだまだ頑張るよ~。
今日はこれから東へ。
京大変人講座
「多様性」とかいう言葉も誤解されている。
多様性は「みんな色々でいいですね、楽しいですね!」ではない。
大嫌いな奴。絶対合わない、目も合わせたくない、
そういう奴も含めての多様性だ。カエルにとっての
ヘビや人間にとってのゴキブリこそが多様性だ。
本当に多様なら価値観が違うべきなんだ。
「思いやれば全てを認められる」なんて
全然多様性ないじゃんそれ。
理解しなくていい。でも存在は認めるべき。
それこそが真の多様性だ。
変人でよいのだ。自信を持て。
でも人に褒められると思うなよ。
変人は褒められない。でもそれでいいんだ。
****** 以上引用(一部略) *****
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【オーガニック】っていう理念を追って
気付けば今はこんなところにいるのだけど、
この理念のなかで一番重要な要素は
「いのちの多様性」を尊重することです。
せっかく作った野菜食っちゃう虫とか鹿とか鳥とか
マジ超~むかつくけど、それでも共存していく。
全部ぶち殺せ、てやっちゃうと多様性は消える。
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矛盾しているようだけど、
「ムカつくけど共存する」っていうのが
先々には大切になる、という感覚があるんです。
だから「ちゃんとしない」のがいいんですね。
60点でいい、ってのはいい線かも。
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ちなみに僕は総合人間学部の1期生なんですが、
入学したときは旧教養部から改組されたばかりで、
カリキュラムもあるんだかないんだか、
理念を大きく描いたはいいけど中身はなくて
ほぼずっと放置プレイだった気がします。
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で、それをいいことに3回生くらいまでは
まぁよく遊んでた気がするなぁ。
人生の勉強とか言っちゃって、バンド、バーテン、
ゲーム、競馬、スキー、合コン・・・
でも友人らと自主ゼミを始めたりしてるうちに
やがて勉強そのものが滅茶苦茶面白くなった。
物理とか哲学とかどれだけ議論しあったか。
なかでも地学教室に出入りする面々とは
しょっちゅうツルんで色々させてもらった。
後ろでニコニコ見守ってくれてた
酒井先生の存在は大きかったんだろうなぁ。
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そういえば、当時のことを振り返ってみると
周りには狂ってるとしかいいようがないヤツとか
気持ち悪いヤツとか沢山いたのは確かで、
でもあいつらとは違って自分は相当まともだ、
割とイケてるんちゃうか、と思ってような・・・w。
今となってみればこっちこそヤバイ奴なんでしょうね。
ごめんなさい<(_ _)>。
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翻って思うに、「変人」っちゅうのは
なろうとしてなるもんではない気がするなぁ。
本人はいたって真面目なんだ。むしろ真面目すぎ。
己の感性に従い、自分の頭で徹底的にロジカルに考え
それを確実に行動に移し続けていくと
やがて世の中から変人扱いされちゃう。
それが結構苦しくて嫌になったりするわけで、
そうなれば世捨て人みたいに静かにひっそりと、
していたほうがマシ、ってなるのよね。
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でも、時代の流れのなかで、
新しい世界を創造していくためには
そういう力こそ大切なんだ、となってきた模様。
だから、変人たちよ、胸を張れ、と。
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ということで、
5月8日の「変人講座」受講しに行きま~す。
家族は音楽
これいいなぁ⇒【家族は音楽のように変化をする】
いままで、家族と言えば(音楽で言えばアルバムのように)
ひとつの固定的なまとまりとして語られることが多かった。
しかし、これからは『個』が強く浮き出る【これまでにあった
境界線のようなものが溶け出していく】時代になる。
ひとりがひとつの音楽になり、その音楽が加えられている
プレイリストが『家族』というものになる。
そのため、ひとつの曲が様々なプレイリストに
加えられていくというのは当然の現象となり、
結果として「誰もが複数個の家族を持つ」流れになるだろう
ここ最近、これからの「家族」のあり方について
考え続けていたところへ、ストンと入ってきました。
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多様性の時代。
ひとりひとりの感情や文化の源泉である「家族」。
今は自分自身を思う存分発揮できるよう
「家族をエンジニアリングする」
ことが求められているように感じます。
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守り育てられ
反抗期を経て
執着を手放して自立する
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守~破~離
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これって「道」とも似ていますね。
「家族」はいつだって【自立と共生】の鍵。
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男と女
親と子
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僕らはどんな音楽を奏でていくのだろうか?
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★そうだ、これも読みたかったんだ。
動的平衡を考える(その1)~国家と生態系
朝鮮半島を巡る緊張を眺めながら感じたのは
我が身の危険的なものでは全然なくて、
これからの世界はどうなっていくのか、
僕らはこの現代社会をどう生きていくのかを
「立体的に」捉えることの重要性でした。
国家間のやりとりは自分達に関係ないどころか
身近な人間関係の在り方と密接に繋がっており、
むしろリアルな拡大投影図のように感じられたのです。
で、どっぶりと浸って色々考えていたのですが、
なかなかキレイにまとまりきらないので
頭に浮かんだいくつかのイメージを足早に浚って
今後の思索の足場にしていきたいと思います。
★「国家」という統合形態の限界と来るべき共同性
今回の一連の出来事は「国家」間の争いですよね。
ただ、その前提となっている「国家」の意味は何だろう。
少し前の記事で目を引いたものがあったので引用します。
・第一の国家観では、国家を、ひとりひとりの人間の
共存と福祉のための公共財である機械装置と考える。
・第二の国家観では、国家はひとりひとりの生命を超えた、
より高次の崇高なる集合的生命とみなされる。
この記事の著者は「個」を土台にした第一の国家の側に立ち、
全体主義的な国家の危険性を指摘し、批判します。
とはいえ、現代の混沌とした時代情勢のなかで
「ひとりひとりの生命を超えた集合的生命」
の存在が強く求められているのは紛れもない事実。
それでも、これほどまで多様化した社会のなかで
その標を国家に求めてよいのか、ということが
問題になっているように思います。
(「ムラ」「会社」あるいは「家族」でも同じこと。)
僕自身の感覚では、多様性~カオスに飲み込まれて
「集合態」と化した国家に「共同性」を求めることは
もはや救いにならないように感じられます。
孤立し荒んでいく「個」の心を満たすために
「神」の存在をどこに見出していくのか、
その実体を構成する組織態はどんなものになるのか?
ひとりひとりの物心両面を支えてくためには
単一のわかりやすい<象徴>で統合するよりも
幾重ものレイヤーが重ねられるような
構造が求められているのかもしれません。
歴史を振り返ってみると、宗教と国家とが
完全に切り離された状態というのは
かなり不自然な状態なのですよね。
「科学」「合理性」も一種の宗教と捉え、
その基盤が揺らいでいる現在の時代情勢を
どんな風にとらえればよいのでしょう。
ふと、歴史家トインビーを思い出してググっていたら、
松岡正剛氏のブログがヒットし、ここでのテーマ、
「現代の受けている挑戦」を乗り越える方法の一つとして
ディアスポラ~「散在体」について書かれていました。
「散在体」とは、移動する共同体であって
記憶をもったコモンズであり、
電子の網をつかった情報の複合体でありつつ、
応答をこそソリューションとする
プロセス組織というようなものなのではないか
705夜『現代が受けている挑戦』アーノルド・トインビー|松岡正剛の千夜千冊
変化の時。
既存の枠組を少しずつ解体しながら
人のつながりの新しいかたちを
模索していく時代なのだと思います。
外の世界を見ず、思考停止をして、
酔っぱらいのように全体主義を夢見つづける
「井の中の蛙」とどう対峙していくのか。
ハードに行くのか、ソフトに行くのか。
これぞまさに「政治」というもの。
★「生態系」という考え方
僕は「自立と共生」ということをテーマにして
有機農業に取り組んできましたが、
この業界では長らく「農薬」の使用について
色々と議論が交わされてきた経緯があります。
で、ふと思ったのですが、
農薬をどのように使うかということと
軍事力をどのように使うかということは
とても良く似ているようなのです。
虫や病気の存在を「悪」と決めつけて
農薬で徹底殲滅するという考え方を止めて
「生態系」全体のなかでの彼らの働きを意識して
取り得るオプションを模索するのが
オーガニックなスタイル。
これは持続可能な形で自然と人との関係を
築いていくうえでとても大切な思考法です。
でも消費者の側では、そんな僕らの想いとは関係なく、
我が身の安全のために「農薬」は使うべきでない、と
不安に煽られ奇妙な視野狭窄を起こす人が続出し、
「無農薬」というキーワードが独り歩きしました。
売る側もそれに迎合して調子よくやっているうちに
異常に単純化された図式が世に定着したのです。
「無農薬」=「平和」
同じような思考回路の定着メカニズムを感じます。
僕は社会や生態系そのものを<いのち>とみたとき、
それが「健康」という状態があると思っています。
そしてそれを実現するためには、
その構成要素となる人(細胞)に
ひとりひとりが自らの足で立ちながら、
共に生きているという現実を見失わない、
バランス感覚のようなものが要求されます。
応分の「リスク」の取り方、とも言っていい。
有機農業という方法論を用いてきたのは
そのための知恵を磨くためだったように思います。
守られ続けるうちに甘え、麻痺していきがちな
ヒトの本質的な「弱さ」と向き合いながら
次の時代を創っていくにはどうしたらよいか、
そのあたりのヒントが今回の事件のなかには
あったような気がしてなりません。
。。。
今日のところはこのあたりまで。
あと考えていたことは次のようなこと。
また時間があるときにまとめてみます。
★動的平衡を意識する
★秩序と無秩序のあいだ
★リーダーという機能
★家族をエンジニアリングする