誰もが目的感を持てる世界
Face Book 創業者マーク・ザッカーバーグ氏の
ハーバードでのスピーチ日本語訳です。
倉本圭造さんの仕事、批評も含めて素晴らしい。
---以下引用------
今日、僕は「目的」について話します。
しかし「あなたの人生の目的を見つけなさい的な
よくある卒業式スピーチ」をしたいわけではありません。
僕らはミレニアル世代なんだから、そんなことは
本能的にやっているはずです。だからそうじゃなくて、
今日僕が話したいことは、
「自分の人生の目標を見つけるだけでは不十分だ」
という話をします。僕らの世代にとっての課題は、
「”誰もが”目的感を人生の中で持てる世界を
創り出すこと」なのです。
---以上引用----------------
ではそのための方法は?(以下、本文より抜粋)
★世界に「目的感」を持ってもらうための3つの方法
その1・一緒に大きくて意味のあるプロジェクトについて語る
その2・”平等性”を再定義して誰もがその目的に参加する
自由を持てるようにする
その3・世界規模のコミュニティを創り出す
枯れ木に花を咲かせましょう
嘘と執着の支配する時もそろそろ終盤
正直と悟りの時代が近づいてきたみたい。
そういうポテンシャルを誰しも持ってるから。
皆で豊かになっていければいいなぁ
いつも希望を持ち続けていよう。
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いつだって誰もが皆、
自分の人生を必死に生きてる。
でも、何をやってもうまくいかない時がある。
悩んで、苦しんで、もうどうしようもなくて。
ただ小さくなって震えているときがある。
叫びたくても叫べない、声が出ない、息ができない、
絶望的に助けを求めているのに、助けは来ない。
そんな時がある。
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そこに差し伸べられる「手」があれば
それは何よりも尊くありがたいものになる。
慈しみはいのちを救い、豊かさを生むんだ。
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でもその「メカニズム」を利用しはじめると
世界は途端におかしくなってしまう。
助けることは気持ちいいし、得になる。
だから助ける行為は中毒になりやすい。
空っ風の吹きすさぶ世界の現実のなかで
「暖かさ」を追うことは生きがいになりうる。
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でも、この面倒見てやるという感情は
「執着」に他ならない。
自分よりもっと弱い生命をみつけることで
自分自身の「苦」から目を背けさせる麻薬だ。
誰だって、油断すればこの感情に巻き込まれる。
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だからこそ、支配しよう、利用しようではなく、
ごく単純ないのちへの「慈しみ」に還ることが
とても大切になるのだと感じる。
因縁のなか、「親」の役割が与えられるときに
あれこれ余計な計算をしても、碌なことがない。
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ここ最近、自分に向かって繰り返し語っているのは
弱き己の心を受け入れ、等身大の自分に帰ること。
自分のなかに蠢く情動を静かにじっと見つめ、手放す。
そうすると自ずと他者への愛と慈しみが湧いてくる。
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相手を楽にする方法、幸せにする方法ではなくて
間に在る「暖かいもの」に忠実であればいい。
何とかするための「手段」に意識を集中せず、
ただ頭を空にし、共に在ること、寄り添うこと、
それをひたすら念じ続けるのみ。
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経営とは<いのち>を育てる営みだ。
頭でこね回して「操作」したところで
結局事業は尻すぼみになるに決まっている。
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だから何よりも自分自身を本当に大切にすること、
基底となる「こころ」を磨き続けること、
絶えずそこに立ち戻る。初心忘るるべからず。
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そうして、淡々と、淡々と。
ねたみと怒りが仮初に世界を支配したとしても
執着に呑まれないよう、ニコニコ笑って
ひたすら許し続ける。
だってつまらない、つまらない。
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生命の歴史は悠久なる大河のようなもの。
この小さな小さな器のなかにも
<いのち>の水は流れ込み、そしてこぼれ出る
僕らはこの河に下り、水を汲み、のどを潤し、
後に続くものにそれを手渡していく。
やがて大きな流れのなかに還ることを夢見て
今日も仮象の世界を生き抜いていく。
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故きを温め新しきを知る。
世界を豊かにする真のイノベーションは
小さき心配りの先に生まれるのだと思う。
与えられるものを忠実に模倣するなかで
やがていくつもの気付きがつながり、
時が来れば花を咲かせる。
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慌てることはなにもない。
今はその意味が見えなくても、
点と点はやがて線になり、面になる。
そうして【曼荼羅】は描かれる。
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いやはや、もう夏ですね。
なかなか手が回らず、すっかり伸び伸び
生い茂っていく畑の草を眺めて溜息。
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夏草や兵どもが夢の跡
国破れて山河在り
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この場所、この時に刻まれる物語。
自分の歩んできた道、これから歩む道を
遥かに見晴るかす。
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<いのち>は伸びゆく。
弥栄に。
安全安心の果てにある世界は?
インターネットで入手する情報なしでは
日々を過ごすことができない時代。
お役立ちHowToを教えてくれるものから
深い気づきへの促しを与えてくれるものまで
僕らは絶えず膨大な情報フローのただ中にある。
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とはいえインターネットに流れる情報は玉石混交。
デマや思い込みであってもバズってしまえば
もっともらしく感じられるものだ。
「フェイクニュース」が当たり前の時代。
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健康に関する情報収拾サイト(WELQ)の
やり方が大きな問題になって半年ほど。
金儲けのためには間違った情報であろうと
じゃんじゃん垂れ流すことを「是」とする、
そんな企業のガバナンスが問題になった。
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自分たちの生命に関わる事態であるからこそ
情報を求める気持ちは真剣そのもので、
ネットに渦巻くこの救済を求める強いエネルギーを
ビジネスや政治・宗教に利用しない手はないのだ。
そうしてマーケッティング戦略は磨かれ続ける。
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複雑に張り巡らされた罠(トラップ)を見抜けない
「リテラシー」のない人たちは
そうした罠に次々と絡め取られていく。
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でも、「世の中のことは何でも知ってる」
なんていう人間はこの世に存在するだろうか?
「教養」の在る無しは確かにあるだろうが、
「リテラシーがある」と胸を張って言える人ほど
トンデモナイ迷妄に囚われていることはよくある。
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僕らは皆、「フェイクニュース」の濁流の中で
誰しも命を脅かされるようなリスクを抱えている。
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だから、こんな風に思う人たちもいるだろう。
この事態は不当だ、人を不幸にする虚偽や悪意から
社会の人たち守ってあげる必要がある。
皆が真実を知る、あるいは何が真実かを見分ける力を
しっかりつけさせる、教育していく必要がある。
できない人には常に付き添ってあげる必要がある。
そうした姿勢は子を護る親の役割に擬して、
「パターナリズム」と呼ばれている。
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でも庇護者である「大人」のつもりの人たちが
本当に正しく、虚偽のないと胸を張れる
知恵や情報を持っているかといえば、
そんなことはないんじゃないか?
僕らの現実はいつもカオスのなかにあるんだ。
嘘や悪意に負けて飲み込まれるなら
それはそれで運命だからやむを得ない。
全ては自己責任である、という判断を軸に
「自立せよ、お前はお前の道を行け」
というのが「リバタリアン」の思想だ。
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かつて、国家や村や会社が「親」となり子を護った。
それに反抗する人たちはアナーキストと呼ばれた。
しかし、そうした役割が激しく傷んできたなかで
僕らはより高度な社会の統治方法を求められている。
家族そのものまで壊れてきたこの社会のなかで
秩序をつくる磁場全体が創発される時が来ている。
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という言葉にピンと来るものを感じている。
次回開催される京大「変人講座」のスピーカー
那須さんの論文などを斜め読みしながら、
次の時代の社会の秩序形成のあり方について
思いを馳せている。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/…/210568/1/soc.sys_1…
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今回の紹介記事では、
Google が展開する Fake News との闘いのこと、
「質の高い」情報がヒットするよう
常にアルゴリズムを変化させている様子について
数値解析をしながら丁寧に解説してくれている。
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Googleが提供しようとしているのは
新しい形の「パターナリズム」に他ならない。
ただし、検索する本人は自分の意志で決定しているので、
それは「リバタリアン」の思想とも共存可能だ。
「意志」そのものがシステムのなかで
巧妙に誘導されていくような設計が施される。
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人間が安易に救済を求めてしまう心は
深い深い沼のようなものなのだろう。
自らの頭で考えるより、HOWTOを求める人の群れ…
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でもそれで何がわるい!?
ええじゃないか、「南無阿弥陀仏」と唱えていれば。
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にしても、「質の高い情報」というものは
実際のところどこまでも恣意的だよなぁ。
それを選別する基準を担うのは、今のところ人間だ。
やがてはそれを人工知能が担うかもしれないけれど。
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人々をどこへ導いていくのがよいのか?
誰がそれを導いていくのか?
知性は誰によって担われるのか?
そういう人材をいかに育てていくのか?
そこを人工知能に委ねていくことは可能なのか?
僕らの問いはそこへ集中していく。
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支配する側に立つのか、支配される側に立つのか。
その支配構造は実は、植物や家畜と、
彼らを栽培する、育成する農業者の関係と
とてもよく似ているのではないだろうか?
植物は農業者の力を借りて蔓延る。
さらに遡ってしまえば、それはそのまま、
これって地球上で生命が繰り返してきた
暮らしの営み=共生そのものじゃないか。
どっちが支配しているかなんて、
もうこの際どうでもいいんじゃね?
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だから僕はもう、あまり悲観していないなぁ。
無知・蒙昧さの程度という意味では、
歴史上のこれまでの時代はもっと酷かったはず。
確かなことは、今や世界中が皆、
オープンな情報に触れるようになってきたこと。
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今はただ、僕は僕に流れ込んだ文化的遺伝子に従い、
己のリテラシーをみがくこと、
Whyを考えることを続けながら
それを後継に伝えていくという作業を
淡々と地道にやっていきたい。
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これは「道」なのだと思う。
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古来、宗教が担ってきた知恵や役割さえも
皆が当たり前に身に着けるようになっていく。
幾多の叡智が集合知として、世界共通の電脳上に
蓄積されていくという人類の挑戦を
楽しんで見つめていればよいのではないだろうか?
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落ち着け。楽観せよ。
経産省若手有志プロジェクトをめぐって
ここのところ巷で話題になっている
経産省の若手有志によるプロジェクト。
http://www.meti.go.jp/commi…/summary/eic0009/…/020_02_00.pdf
これを見た方からいろんな意見が出ていて、
ふむふむ、と思わされることが多いです。
国家という仕組そのものを見つめなおし、
これからの「公」を支えるシステムを
皆で意見をぶつけ合わせながら
考えていくよいきっかけになったようです。
僕も7月に地方自治体の方々とともに
地域社会に広い意味で「オーガニック」な
スタイルを広げていくための集まりに出るので
その際の議論のベースにもなりそう。
行政の人は完璧じゃなきゃいけない、
なんてことはないです。そこは責めない。
彼らを孤立させたって良いことないですから。
少々のエラーなど吸収できるシステムを
地域の皆でつくりあげていけばいいんです。
そのためにも、従来通りの枠のなかで
粛々とペーパーワークを進めるのではなく、
といって単に想いをぶちまけるのでもなく、
リーダーシップ~取るべき責任を取ること、
多様な在り方の許容、学び続ける姿勢など
より本質的な「経営」のスキルが要求される
時代になってきたということなのでしょうね。
内輪もめしている場合じゃない。
多様な人たちが鎬を削りながらも
互いに学び、成長していけますように。
愛と執着
「悟り」が当たり前になる時代、万歳。
---以下引用---------
愛と呼ばれているものは
「自分を使ってそのひとの幸せを願うもの」
ならば、執着とは
「そのひとを使って自分の幸せを願うもの
【要するに自己愛】」
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「ひとに自由を与えるものが愛ならば、
結果的になんだかいろいろ面倒くさい
ことになるものが執着」
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「世界でもっとも幸せを感じている民族」
フィジー人の「幸福の習慣」
1・モノもお金も子どもでさえも「共有」すること
2・「テキトー」に生き「テキトー」を許すこと
3・過去と未来のために生きることをやめて「現在に集中」すること
4・他者との「つながり」に価値を置くこと
御殿場海岸~津八幡宮
昨日は津での会議の後ふらっと海へ。
深い緑に誘われて立ち寄ってみると
三つの小さな鳥居が重なり合い
静かに神域を護っていた。
心安からむことを。