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日々の雑感

忍びの里、伊賀の地より。オーガニックとは? 「本物」はどこに?

躁鬱を抱えて生きる~【全能感】を求めるこころをどう導くか

p-shirokuma.hatenadiary.com

昨日、この記事を読んでいて、
あ、オレ間違いなくこれやな、と思った。
身近で僕を見ている人はきっと同意してくれるだろう。

病名がついたからといって、どう、
という訳ではないのだけど。

コントロールしがたい自分の日々の振る舞いについて、
多少なりと客観的な認知を深め、
今後の身の処し方についてヒントを得た、という感じ。

ただ、案外センシティブにならざるを得ないのは、
「病気だから」と社会的に合法な「言い訳」を得て、
安心感を得ることへの拒絶感があるから。

「こいつ何だかようわからん奴で、ちょっとイライラするなぁ」
てな風に思っていた人が、「躁鬱」というレッテルを張ることで、
あぁそうかこいつは病気か、と思って安心されると、
何だかちょっと居たたまれない感じがするのだ。

人が自分と異なる存在に気づき、この世界の多様性を認めながら、
それでもそれぞれ本当に自分らしく生きていければいい。

そんな「自立と共生」の道を模索してきた以上、
こういうところの緊張感を保っていたい。
「尊厳」の問題として。

「年寄だから」「女だから」「子供だから」「障害者だから」
と安易にカテゴライズすることも、されることも拒否していたい。
マジョリティ、力を持つ側の無感覚な安逸が嫌いなんだ。

ひとつの「個性」が生まれ落ちた文化・経済状況のなかで
どんなふうに展開され、現象していくのか。
つまり、どう生き、どう死んでいくか、
それをただ、まっすぐに受け止めていたい。

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一昨年の秋に喘息で大きく体調を崩してからというもの、
以前のようなパフォーマンスを出せない自分と向き合い続けている。

かつてはギリギリまで遠くから状況を眺めておいて、
最後の最後に追い込みを掛けて、土壇場で踏ん張り、
結果的として期待値以上の答えをパーンと出す、
そんなスタイルを信条にしてきた。

ある意味、そういうところにナルシスティックな
「カッコよさ」を感じてたのだと思う。

どうやらそれは、学生時代から続いてきた悪癖で、
学校の授業は集中して聞くけど、あとは一夜漬けで
さらっとこなし、わりと良い成績を修めることができた。

日々コツコツ努力、っていうように、
安定した日常を組み立てるのは相変わらず下手クソだ。

大学で論文書いたり、企業でも開発に没頭していたときは、
息の長~い、答えの分からない創造的な作業に取り組んでいた。
中心軸となる大きなテーマは絶えず底流に置いて考え続けつつ、
日常はいつだって大きな振れ幅で、一喜一憂を繰り返してきた。
振り返ってみれば、僕はいつもそういうスタイルで生きてた。

大事な会議とか、ここ一番というときは一気に集中力を高め、
最大限の成果を出すようにする。
多少滑ることもあったが、概ねそれで乗り切ってきた。

就農して、フルに現場で百姓をやっていた間は
そんなこと考える間もないくらい常に
日々の作業で追いまくられてた。
身体はキツかったけど、基本、モノづくりの仕事だ。
精神的には今と比べれば遥かに健全な日々が続いていた。

だけど協議会の運営、生産法人化、流通組織の設立~経営、
などと仕事が高度化していき、多様な人を統合する仕事が増える。
役所や銀行のような「公―おおやけ」との関わりも深くなる。

そして、行きがかり上、地域への放射性がれきの持込の是非など
ほとんど解のない、互いに歩み寄りをできない(しない)、
「無理ゲー」の調整役をやったりするうちに、
だんだんとテンション挙げて乗り越えなきゃいけない壁が
高く高くなっていってしまったのだ。そして孤独は深まる。
切れる寸前、という状況を繰り返すなかで磨滅していく自分。

政治ゲームは強烈な「躁」で突っ走らない限り
抜け切れないね、今僕らが置かれた社会の構造上。

皆が腹積もりをぶつけ合い、妥協しあいながら、
状況をともにつくっていくのであればいいのだけど。

下駄を預ける人達は文句を言ったり、
自己アピールをするばかりで、
現実的な解を社会全体で作っていく気はない。
井の中の蛙、閉じた共同体をつくるばかり。

一方の権力サイドに立ってしまった人間は、
ひとつひとつの命のことなど処理する対象としか見ず、
煩わしいものだから、情動を計算して静かに事を運ぶ。
粛々と、ってやつ。

どうすればちゃんと繋げるんだろう。
社会を統合できるのだろう?
ただひたすらそれを考え続けてきたように思う。
そしてそのための事業のあり方を考え続けてきた。

時に絶望しながらも、手綱を握っている事業については
転がし続けなければ、と踏ん張りながら、
明るくやらなきゃ意味がない、と、
向き合い続けてきたのだけれど、
結局、最後はこころと身体がクラッシュしてしまった、
ということなのだろうな。

 

でも、これって、僕だけの問題なのか???
僕自身のなかの重要な課題ではあるけれど、
同時に社会のなかで、ひとりひとりが抱える課題。

「全能感」を持ちづけたい。

という、「全」から切り離されて
「個」として存在しているが故に
生まれ出ずる悲しき欲望。

「力」を求め続ける人の群れ。

「等身大の自分を生きる」ということが
今ほど難しく、さりとてここまで重要になる時代は
未だかつてなかったのかもしれない。
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p-shirokuma.hatenadiary.com

 

 

で、ま、ペース保ちながら、
そこそこ息をいれながら、今はやってます。
ギリギリではあるけれど。
今回の気づきを元に、改善できることも色々ありそうだし。

ゆっくりかもしれないけれど、少しずつ出来あがってきた、
「生きたチーム」が今の僕を支えてくれている。
そのこと自体が僕にとっては大きな救いだ。

そこはもう、ただ感謝あるのみ。

ともかくも、明日もまた、生きていこう。
歩いていけば、きっと何とかなる。
そう思える限りは、大丈夫。
慌てないこと。慌てないこと。